空論オンザデスク

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子育て、親育てを中心としたブログ 教育本、子育て本、鉄道もの、プラレール、トミカ系おもちゃなども。

私たちの職は人工知能に奪われるとか奪われないとか ーシンギュラリティ前夜の世界を思い描くー

人工知能が人間を超える「シンギュラリティ」

人工知能の能力が加速度的に向上していき、ついには人間を凌駕する。それをシンギュラリティ(技術的特異点)と言います。起こる時期は、提唱者によってまちまちですが、2045年あたりを指すのが最も多いらしく、2045年問題とも言われています。

ideasity.biz

 

「なくなる職業」「生き残る職業」

 

20年後には、現在ある職業の半分がAIに代替され存在しなくなるという衝撃的な予測が出されました。この、オックスフォード大学のオズボーン准教授による予測は、ショッキングな内容とともに、「なくなる職業」と「生き残る職業」という二項対立的なシンプルな構図が話題を呼び、いたるところで喧伝されてきました。

その後、雨後の筍のようにあちこちから「この職業は残る」とか、「この職業は消えて無くなる」とかいう主張が飛び交い、ネットで検索でもしようものなら大変な情報パニックに陥ってしまうこと間違いなしです。

私自身も教育業界の片隅で飯を食わせていただいているので、「教師」という職の運命には無関心ではいられないのですが、残念ながら6:4ぐらいで消える方にカテゴライズされていますね。

 

議論すべきは「シンギュラリティ前夜の世界」 

(画像クリックでアマゾンのサイトに飛びます) 

 

話を最初に戻すと、シンギュラリティ(技術的特異点)をめぐる議論は、そもそもそれが起こるかどうかという根本的な部分も含め、人間社会の究極的な姿を予言しようという、非常にSF的かつ深遠な議論なわけで、職業云々よりも以前に、人間という存在がその姿を保っていられるかどうかというところまで議論の対象にしなければなりません。

だから、私たちが考えなければならないのは、「シンギュラリティ前夜までの漸進的人工知能化の世界」であって、人工知能が万能となった世界ではありません。

もしも人工知能が人類の総体を超える能力を持ち得たならば、そもそも「思考する」ということ自体の担い手が人間ではなくなっているからです。

 

技術革新は仕事を作りもする

manapedia.jp

ですから、前提としては、「人工知能が徐々に能力を増大させていき、人の能力にキャッチアップしてくる社会」です。そして、重要なのは、今の前提の部分の「人工知能」を「機械」に置き換えて読めば、産業革命以来、私たちがもう300年以上もその只中にいるということなのです。

例えば内燃機関の発明とともに、馬車の御者は徐々に減っていきましたが、その代わりに自動車の運転手が増えていきました。技術革新によってそれまであった職業が不要になる一方で、新たな需要が生まれ、新たな職業が必要になってきました。それはこれからの社会でも同じはずです。たとえば自動運転車。自動運転が普及した社会では、当然ながら「運転手」という職業は存在しなくなっているでしょう。しかし、今度は、自動運転システムのメンテナンスをしたり、運行を司る人工知能の管理をしたり、リスク管理をしたりする職業が必要になってきます。

それは、機械が人の仕事を奪う過程であり、かつ機械が人の仕事を作る過程でもあるのです。ただ現代の世界が抱える問題というのは、技術革新のスピードがかつてないほどの速さだということです。

 

人工知能はすでに生活に根付いている

 

もはや人工知能は空想のものではなく、私たちの生活に着実に入り込んできています。PEPPERを見たことがある人はさほどいないかもしれませんが、ほとんどの人はsiriと話したことがあるでしょう。目に見えにくいところ、なんとなくいつの間に、という部分で、すでに人工知能への置き換えは進んでいるのです。

http://business.newsln.jp/news/201612130559450000.html

さきほどの自動運転の話で、googleが自動運転システムの開発を中止したとのニュースがありました。こういった法整備が進まないなどの障害で開発が鈍化することも一時的にはあるかもしれません。法システムの不備というのは、要するに技術革新に対する人間側の拒否反応だと見ることができます。しかし人間はこれまでどんなことにも慣れてきましたし、「運転席にだれも乗っていない車」に対する生理的恐怖感も、時間が経てばいずれ解決するものです。

 

人工知能の普及は究極のコスト削減をもたらす

 

話が脇道に逸れまくってしまっています。私が言いたいことは、人工知能が普及することで、人の活動にかかるコストが極限まで削減できるということの意味です。

 

技術革新とグローバル化は、生産や流通、消費といった経済活動にかかるコストを不可逆的にどんどん削減してきました。人工知能化はそれに拍車をかけるどころではなく、まったく異次元のコストカットを実現するのです。

ルーチンワークやパターンワーク、危険な仕事、肉体労働、それらをすべて機械がやってくれるとしたら、何をしますか。

もちろん、上の記事にあるような、人にしかできないクリエイティブな職業に就き、オリジナリティを追求する人も中にはいるでしょう。しかし、他の大部分は、そこまでの才能や関心を持ち合わせていないとしたら、することは一つではないでしょうか。

 

つまり、開拓です。海底世界、月面、太陽系内惑星など、コストがあまりにもかかりすぎるという理由で開拓の手が伸ばせていない場所が、ちっぽけな人類領域の外に広がっています。

歴史上、人口過多は人口流出を生み、移民と開拓を推し進めてくる原動力となりました。現在の地球は、ほとんどの地域で開拓が頭打ちになり、海底や宇宙開発はコスト面で採算が立たず、人類はフロンティアを失って久しい状態です。しかし、人工知能がそれを可能にし、私たちに新しい世界と、新しい職業をもたらす。

 

希望的観測すぎるという批判は覚悟していますが、どうせ未来の話ですから、このくらいの風呂敷は広げたいものですし、3歳の息子が将来宇宙開拓者になっていると想像するのも楽しいものです。

 

 

権力者の本性は顔の「横幅」で分かる

男の顔の「横幅」を見ると何が分かるのか

 

今回も、橘玲氏の「言ってはいけない」からネタをいただきます。

 

上の画像クリックでアマゾンのページに飛びます。

注目したのは、以下の記述。

 

母親の胎内で高濃度のテストステロンに曝された男性は顔の幅が広くなる。こうした男性は成人後もテストステロン値が高く、攻撃的・暴力的な傾向が強い。これは別のいいかたをすれば、冒険心に富み、競争で勝つことに執着するリーダータイプのことだ。

 

テストステロン値が高いと、顔の幅が広くなるとすれば、逆に、顔の幅が広いほど男性的だということで、引用にあるような「攻撃的・暴力的・冒険的・競争好み」の、絵に描いたような権力者タイプになるのです。

 

この記述が100パーセントどんな例にも適用できるかどうかはさておき、直近ですぐにぴんとくる人物は、もちろんこの人ですよね。

 「トランプ次期大統領」の顔は?

上の画像クリックでアマゾンのページに飛びます

ドナルド・トランプ次期アメリカ合衆国大統領

 今後の世界の行く末を担うもっとも重要な人物となる人です。

この人については、本によって評価が全く異なるため、読めば読むほど「読めない」状態に陥っていきます。

ちなみに上に挙げた本によると、トランプ氏は天性の嘘つきで自分に注目が集まることを好み、悪評でもなんでも常に自分が物事の中心にいないと気が済まない人物だそうで、典型的なテストステロン高濃度人だと言えそうです。

 

トランプ氏の写真の中から、なるべく正面を向いたものを選び、オバマ現大統領と比較してみました。

顔の横幅は頬骨の端から端まで。縦幅は顎の先端から頭頂部と見えるあたりまで。

 f:id:unbabamo189:20161204223836j:plain

まあ、言わずもがなですが、違いは明らかですね。

オバマ氏は知性的なイメージのリーダーですから、その違いは見た目にもくっきり現れています。

 

トランプ次期大統領の若い頃からの顔の変遷

 

では次に、同じトランプ氏でも若い頃からの顔の変遷を見てみます。

f:id:unbabamo189:20161204223811j:plain

 若い頃はイケメン大富豪だったトランプ氏。40代のころまでの縦横比は1:1.66〜1.68で、上のオバマ氏と大差はありません。ずっと細面で、今のような暴言を吐きまくる人物には見えません。

 

けれどそれは見た目だけのことで、例えば1番右の10代の頃は、ヤンチャで手をつけられない乱暴者だったため、両親に軍隊教育を行う学校に入学させられました。

つまり性格は昔からほとんど変わっておらず、その間ずっと高濃度テストステロンを分泌し続け、その結果今の横幅になったのだと推測できます。

だとしたらおそるべきテストステロンです。

 

ちなみに・・・

 

もうひとり、世界には暴言で知られるリーダーがいます。その人物はどうでしょう。

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僅差ですが、ドゥテルテ大統領の勝利。

この人のエラの張り方は半端ないですね。

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unbabamo189.hatenablog.com

 

 

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アクティブラーニングの成立に必要なたった一つのこと

教える側の意識を180度変えること

 

なんとなく、ちょっとずつアクティブラーニングというものが見えてきたような気がしています。

先駆者の書かれた本を読ませてもらったり、縁をたどって授業を見させてもらったりして、なんとなくこういうものかなという感触を得たので、ひとまずまとめてみようと思います。

 

アクティブラーニングを授業において実践し、継続して効果を上げるために必要なことは、たった一つ、教える側の意識を180度変えるということにつきます。

つまり、「教える」ということをやめるということです。

 

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか

 

 この、山本崇雄氏の本は、明確にそれを語っています。先生が教壇に立って明晰にかつ筋道立って講義しても、そのほとんどは生徒の頭に入っていないのです。

 

  • ・生徒が生徒を教えるように導くこと
  • ・生徒全員が、教える・教えられるという役割を漏れなくそして繰り返し担うようにすること

 

これを確実に全時間を通じて成立させる必要があります。

話の輪から漏れている生徒がいないか、役割を理解しておらず、宙に浮いてしまっている生徒がいないか、常に気を配るのが、授業中の授業実施者の主な仕事です。これは、一瞬の気の緩みも許されない緊張の連続を強いられる仕事で、これに比べたら講義などは温泉に浸かるようなものだと言えます。

 

たとえば、山本先生の本にならって英語の長文を読解するという内容だったとしましょう。

  • ・グループ内のメンバーのひとりひとりに、和訳および解釈を作る担当部分を割り振る。
  • ・担当者が担当部分を説明し、他のメンバーは質問したり内容をおぎなったりする。
  • ・協働のなかで完成した全体像を見て、全員で文章のテーマおよび要約を作る。

 

といった流れでしょうか。

大切なのは生徒同士の協働がすすむことですから、生徒の動きが活発であればあるほど良い。だから当然、教室内は騒然としますし、まるで無秩序状態のような様相を呈し始めるでしょう。しかし、これで良いのです。というより、これこそが望ましい姿なのです。

一見無秩序状態であっても、議論の内容がズレていなければいいのです。(たとえズレていても、それはそれで失敗から学ぶというのがアクティブラーニングの趣旨ですから、なるべく介入しないようにします)

 

この、

  • 教えないことを基本姿勢とする
  • 生徒が遊動する状態を良しとする

という、およそ今までの授業というものに対するイメージを180度転換することさえできれば、アクティブラーニングはさほど難しいことではないという感触を、私は持ちました。

 

そもそもなぜアクティブラーニングなのか

 そもそも、私たちが馴染みのある授業を捨て、アクティブラーニングに転換しなければならないのはなぜでしょう。

私たちが慣れ親しんだ「一斉授業・講義形式」は、実はそれほど伝統のある形ではありません。この形式になったのは、ここ100年ばかりのことで、 つまり明治になって社会が西洋化した時に、同時に広まっていったものなのです。

近代社会はすなわち工業化社会です。

同じものを大量に、効率よく生産するための人材が多く求められました。ですから、みんなが同じ時間に出勤し、同じペースで同じ品質の物を作る能力が求められたのです。

だから、幼いころから集団行動に慣れ親しませ、教師の号令一下、一糸乱れぬ行動をする教育が行われてきました。

近代の学校とは、工場労働者を安定的に供給するための必要不可欠な機関だったのです。

しかし、現代では知識労働が主流になり、肉体労働や単純労働はどんどん減ってきています。ひとりひとりが自分の頭で考え、課題を見つけ、チームで解決に取り組む能力が求められます。そういう力は、一斉授業では身につかないと言われています。だから、アクティブラーニングが必要なのです。

 

非効率にみえるけど、実は理にかなっている

 

人間の学習過程は、全く不思議なものです。体系だてて一から説明をするよりも、クイズにしたり謎解き要素を入れたり、だれかと競い合ったりするほうが無理なく頭に入っていきます。

たとえば明日のテストのために単語を100個覚えなきゃいけないという時、誰かに問題を出してもらうほうが覚えやすい。それは、人間の脳がコミニュケーションに対してより鋭敏になるようにプログラムされているのだと言います。

 

 

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

 

 橘玲氏の「言ってはいけない」は、非常に面白い本でした。かなりやるせない気持ちにはなりますが。

この本で紹介されている、数々の「あまり知りたくはなかった衝撃の事実」のなかで、「親の子育てはほとんど子供の成長に影響しない」というのがあります。

研究者たちは、双生児研究を積み重ねるうちに、幼い頃に養子に出されるなどして全く別の家庭で育った双子でも、かなり似通った性格をもち、似通った学歴、家族形成をすることが分かったのです。

すなわち、子供の成長にもっとも影響するのは遺伝と、「家庭以外の環境要因」なのです。

 

このことは、橘氏によれば、人類がもっとも長い期間を過ごした狩猟採集時代に遺伝的に条件づけられたものと考えられるそうです。

この時代、多くの母親はほとんど常に乳飲み子を抱えていましたし、父親は狩に精一杯で、ほとんどの子供は親に「ほったらかし」にされていたでしょう。

子供たちは集落のなかで自然と集まり、年長の子供を中心としたグループを作ります。年上の子が年下の子の面倒を見、様々なことを教え、保護します。

この、「頼りになるのは親や大人ではなく年上の子供」という状態が、人類史のなかのほとんどの期間を占めていたとしたら、「親からは学ばない」という姿勢は、子供にとって適切な生存戦略だったことでしょう。

 

アクティブラーニングへの転換というのは、つまり誰から学ぶのかの転換でもあります。

親や教師など、大人から学ぶのではなく、自分たちで学び合う。これは、私たちの遺伝子に刻みこまれた、最適な学習方法なのです。

 

 

サスペンス小説で学べる20世紀 「オデッサ・ファイル」より

ナチス親衛隊(SS)

ナチス親衛隊(SS)は、一言で言えばナチスドイツの災厄を代表するような組織です。

ナチスの突撃隊(SA)と親衛隊(SS)

 

SSとは、アドルフ・ヒトラーのもと、ハインリヒ・ヒムラーによって支配されていた、軍隊の中の軍隊、国家の中の国家ともいうべき存在で、一九三三年から一九四五年までドイツを支配したナチス第三帝国で特別の任務を担っていた。その任務とは第三敵国の保安にかかわる事柄であった。中でも最大の任務は、ドイツと全ヨーロッパから、ヒトラーが”生存に値しない”と考えたすべての要素を除去すること、”スラブの劣等種族”を永遠に奴隷化すること、そして老若男女問わずすべてのユダヤ人をヨーロッパから抹殺すること、というヒトラーの悪魔的野心の実現に努めることであった。

 

 「オデッサ・ファイル」 フレデリック・フォーサイズ著より

オデッサ・ファイル (角川文庫)

オデッサ・ファイル (角川文庫)

 

 

オデッサ・ファイル」について 

 

本書は、サスペンス小説であり、もちろん架空の人物も登場する、架空の物語です。

筋立てそれ自体にエンターテイメントの要素がありながら、実在の人物や組織も至る所で登場し、というか重要な要素となり、フィクションとノンフィクションが渾然一体になっています。そのあたり、筆者フォーサイズ独特の表現方法だそうなんですが。

 

舞台は1963年西ドイツ、ハンブルク。ルポライターのペーター・ミラーは偶然、ガス自殺した老人の日記を手に入れます。老人はかつてナチス強制収容所の囚人で、SSによるユダヤ人8万の虐殺を目撃。自身は生き延び、虐殺の責任者であり実行犯である「リガの屠殺人」、強制収容所長エドゥアルド・ロシュマンを探し出して裁きを受けさせることを誓った。しかし誓いもむなしく老人は失意のままに死亡。ミラーは老人の遺志を継ぎ、ロシュマン捜索に乗り出すが、旧SSメンバーを保護、隠蔽する組織「オデッサ(ODESSA Organisation Der Ehemaligen SS-Angehörigen)」の妨害を受け、ついには命を狙われながら、隠された旧SS戦犯メンバーを探し出す、というストーリー展開。

 

あえてフィクションとノンフィクションの部分に分けるとするなら、主人公でルポライターのペーター・ミラーによる捜索とか暗殺からの回避とか、その辺りのドタバタがフィクション。ロシュマンを始めとするSS隊員とその行い、組織オデッサ、SS戦犯の追及を実行し続けたシモン・ウィーゼンタールなどは、史実に忠実だと言われています。

 はっきり言って、フィクションの部分は期待はずれです。イケメンジャーナリストのミラーが愛車のジャガーを乗り回して手がかりを探す過程は、展開が一方的すぎてわざとらしいですし、ミラーが偶然に、何度も暗殺者の魔の手をかわす場面は、ご都合主義的すぎて見ていられないほどです。ラッキーもいいところで、そんなものを小説展開のメインに持ってこられたら、読んでる方はたまったものではありません。

そこらへんのプロットはさておき、この本の真の価値は、綿密な取材と洞察によって、組織オデッサと旧SS隊員たちの存在を世に知らしめたところにあります。

SSは、前の引用にもあるように、ナチスによる異民族の絶滅を計画し、実行した機関です。SSによって殺された人々は総計1400万人とも言われます。一口で言ってしまうには恐ろしすぎる数です。その行いは、もはや「戦争」と言えるようなものではありません。

そういう犯罪者集団が戦後のどさくさに紛れて名前を変え、公式に裁かれることなく普通に暮らしている。ある者は南米に逃亡し、ある者は東西ドイツに留まり続ける。そしてそれを助け、保護する秘密組織が隠然とした勢力を持っています。それがオデッサです。

なぜオデッサがそれだけの力を持ちえたか。それは巨額の資金があったからで、その資金は「絶滅」作戦のなかで犠牲者から奪い取った財産を集め、スイスの銀行に秘密裏に預けられ、貯め込まれていました。

無数の犠牲者の財産が、殺人者の生活を守るために使われるというのは、なんとも言い表すことのできない不条理です。こういうことが密かに組織的に行われていたということを、「小説」という形で誰にでも読みやすいように世の中に伝えられたというのは非常に意味のあることだったんではないかと思います。

 

戦争を起こした国の国民であることについて

 

これはドイツの話ですが、同じ第二次世界大戦の敗戦国として、日本にも同じような話はあったのではないかと思います。

「戦争を起こし、諸外国に多大な犠牲をもたらした国の国民」として、私たちは教育を受けてきました。

本書でも言われていますが、まだ戦後18年そこそこの時代のこと、現代よりもより濃密に戦争の記憶が残っていて、ドイツ人がドイツ人であるだけで反省を持たなければならないという意識が、全体を支配していたそうです。

しかし、シモン・ウィーゼンタール氏は、作中のセリフですが実在の人物なので、おそらく筆者の取材に対して実際に本人が言った言葉なのだと思いますが、「ドイツ人全体の罪などはない。殺した人間一人一人の罪があるだけだ」というようなことを言っています。氏は実際に、強制収容所の地獄を生き延びた元囚人で、「ドイツによる暴虐」を具体的かつ物理的に一身に受けた人です。

ウィーゼンタールはこう続けます。「ドイツ人全体に罪を着せることで、SSがそれを隠れ蓑にして逃げ切ろうとする。だれもが戦時中、黒いトラックに乗せられ連行されるユダヤ人たちを見ている。その人々は自分たちの隣人であり、友人であった。そういう後ろめたい思いを抱えて生きていると、同じようにSSの追及などはしたくなくなるものだ。もうなるべくなら思い出したくない、というように。オデッサはそういう人々の思いを利用し、追及の手を逃れようとしている。」

 

日本では近年、戦時中の戦争指導者を見直そうという動きが出てきているかと思います。より正確な記録を掘り起こし、事実を再検討することは重要だと思いますが、大量の死と不幸をもたらした戦争に、どのような事情があれその実行に関わった人々だということを忘れてはいけないのだと思います。

 

 

アクティブラーニングが言葉だけになる理由

新学習指導要領の、間違いなく重要な柱の1つとなるのが、「アクティブラーニング」ですね。

私もそれなりに知っておかなくてはと思い、ひとまず本書を読んでみました。

この道の先駆者である方が書いたもののようですし、ざっくりとして分かりやすいというレビューも多かったので。

 

 

「アクティブラーニング」とは、これまでの「講義を聴いてノートを取る」という「受動的な学習」ではなく、学習者が自ら学びを行うという能動的な学習方法を指し、具体的には調べる、話し合う、発表するなどの形態をとること。という定義だったかと思います。

調べる、話し合う、発表する、とかいうと、私なども小学校のころ、社会科で新聞作りなどをした記憶がうっすらとあるので、そんなものかなと思っていました。

筆者が言うには、アクティブラーニングというのは、学習者の能動的な学習を言うのだから、「完全に一方的な講義以外の全ての授業が当てはまる」ということでした。かなり広い解釈ですが、こう理解することで、アクティブラーニングが何か得体の知れない難しいものだという忌避感を減らすことはできそうです。

 

筆者は高校の物理の先生をやってらして、日々の授業の中で試行錯誤しながらアクティブラーニングを実践されていた。その経験から書かれているので、非常に具体的かつ腑に落ちやすい内容です。

授業の構成は、解説15分、話し合い・演習問題35分、確認テスト15分です。

その日の学習内容を冒頭15分でやってしまうというのはなかなか非現実的な感じがしますが、板書は一切行わずパワーポイントで作成したスライドで授業を行う。ノートは取らせず、パワーポイントを印刷したプリントを配る、で、黒板に書いたりノートを取ったりする時間が省け、大幅に時間が節約できると言います。

演習問題では、教え合い、立ち歩きを推奨し、生徒だけで問題を解決させるようにします。このへんの微調整が筆者ならでは。問題が簡単すぎると議論が活性化しないし、難しすぎたり多すぎたりしても同じ。ちょうど良い難度と分量に調節するのは、経験値が要りそうです。

最後に確認テスト。振り返りも含めて、この時間が1番大切だと言います。授業に時間がかかったりすると、真っ先にカットしてしまいがちなパートですが、授業の中では最も重要で、解説を削ってでもやる価値はあるそうです。

 

さて、この本を読むにつけ、生徒が自分たちで学ぶ、というスタイルがきっちりと進行するには、授業実施者の綿密な計画が必要で、そのためには経験の蓄積が前提だということが分かります。

つまり、アクティブラーニングは理論ばかりを振りかざしていても全くダメで、学習者とのコミニュケーションの中で作り上げられていくものだということです。巷で取り沙汰されているアクティブラーニング系の書籍やノウハウも、教える側が取り込んで、噛み砕き、自分なりの方法論に落としこまないと、生きた授業にならないと思います。そういう意味では、ものすごく属人的でアナログな技術だと思います。このノウハウの継承には、対人研修や経験者によるメンター制度などが不可欠でしょう。

とすれば、次世代の教育とは、一周回って初めに戻る。つまり古代以来の徒弟制度のようになっていくのかもしれません。

ハードボイルドとはこういうことか

ハリー・ボッシュシリーズの存在を、今まで知らなかったことが信じられない。

ハリーといえばポッターくらいしか思い浮かばなかったけれど、大人の読むべきハリーはこっちだった。長年の勘違いを痛感した読書体験だった。

 

 

ハリー・ボッシュを知るきっかけになったのが、amazonプライムビデオの「BOSCH」。

独占配信です。他では見れません。

現在セカンドシーズンまで配信されています。サードがなかなか出てこないので、ちょっと心配。

「ハードボイルド小説」と聞いて、何を思い浮かべますか?

タフでニヒルなガイが敵を倒して正義を実現する、そんなイメージですよね。

ボッシュも例にもれず、ハードボイルドの類型にきっちりと当てはまるキャラクターではあります。

けれど、自分がこれまでこのカテゴリーを敬遠してきた最大の理由である、「超人生」が全く見られないことが、すんなり目を開かされた要因でした。

 

ハリーの正式な名は、「ヒエロニムス」。「アノニムス(無名の、無記名の)」 と韻が同じ。「韻が同じ」と言われても、日本人の私にはピンとこないですが、ボッシュは名前について尋ねられるたびにこう答えるので、きっとアメリカ人にとってはすんなりな説明なんでしょう。

母親は娼婦。10代前半で母親と引き離され、強制的に施設に入れられ、そのたった1人の母もまもなく失う。ベトナム戦争を戦い、後に警官になりと、ハードな人生の中で、数え切れない喪失を味わってきた人物として描かれています。

 

そして第1作目から数巻分は、すべて煎じ詰めれは喪失の物語です。

この上何をなくせば良いのだろう、と言うくらいです。戦友、恋人、同僚、家、職等々。作者マイクル・コナリーは、非情なほどに次々と失わせながら、ボッシュをして「使命」へとひた走らしめます。まるで、孤独の中にこそ真実があると言わんばかりに。

 

ナイトホークス〈上〉 (扶桑社ミステリー)

ナイトホークス〈上〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

ナイトホークス〈下〉 (扶桑社ミステリー)

ナイトホークス〈下〉 (扶桑社ミステリー)

 

第1作、「ナイトホークス」はまさに孤独の物語だと思います。

もちろん刑事物ですから、どんでん返しの推理や手に汗握るアクションもこみこみで、しかし一方では「孤独」が際立った色彩を、与えている作品です。

この巻のみならずシリーズ全体を通してキー・アイテムとなる絵画「ナイトホークス(夜ふかしをする人々)」が登場します。

 

ナイトホークス (美術) - Wikipedia

 

ナイトホークス、つまり「夜鷹」。

 

ドラマ版は、小説版のキャラクターをかなり忠実に再現していると言えます。

原作とは異なった設定で、巧みに原作の世界観を描ききっています。

どちらもおすすめ。

 

 

自分の仕事に自信を持ちたいときに読む本

「 なぜ、あなたの仕事は終わらないのか」を読んで

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である

 

 この本は、「仕事がほんとに終わらなくて困っている人」が読むべき本でなく、「仕事がちゃんと終わってる人」が、「あ、自分のやり方は間違ってないんだな」と確認するための本である。

 

と、えらそうに断定してしまいましたが、とかく世のビジネス書、自己啓発書というものは、すべからくそういう性質を持つものだと思います。

ビジネス書には、「まるっきり極論」も書いてなく、かといって「ベタベタな正論」もありません。世の中の常識としてまかり通っている正論に対し、ちょっと違った視点で切り込んで見せる。ちょっと今までとは違う寄り方で偏ってみる。そうすることで、「新しく見えて、かつ受け入れやすい」という内容になるんだと思いますし、あとは上手いタイトルと販売戦略がものを言うのでしょう。

 

そういう視点でみると、結局この本が言っているのは、「仕事は早めに取り組んで早めに仕上げる」ということであり、これは誰もが一度は言われたことがある「夏休みの宿題は早めにやってしまいなさい」ということとさしたる違いはないでしょう。

 

ところが、ここに「Windows95」の仕掛人という権威付けがあり、筆者の豊富な経験からもたらされる多彩なスパイスが本書に魅力的な味付けをしているんだと思います。

 

ビル・ゲイツのエピソード

 

特に、「ビル・ゲイツの意思決定は光速だった」という逸話は非常に興味深いものがありました。

Windows95の開発が行われていたころ、マイクロソフト社内には2つの開発グループがあり、互いに競い合っていたそうです。1つは「シカゴ・グループ」と呼ばれ、もう1つは「カイロ・グループ」と呼ばれていました。「シカゴ」はマイクロソフトの古参プログラマーから成り、いわば正統派。カイロは新参のスタッフから成り、コンピュータおたくやハッカーのような経歴を持つ人々からなる非主流派集団でした。

2つのグループの開発思想がマイクロソフト上層部の会議で俎上に上げられ、その場で即座に「シカゴ」のプランが却下されたそうです。

それまでマイクロソフトの一線で活躍していたエンジニアたちが、膨大な時間をかけて作ってきたものを、その場で切り捨てるという決断でした。

それが結果として、Windows95の大成功につながったとすれば、まさに神のような決断力でしょう。筆者もまた、自身が「カイロ」の一員だったという立場もあるにしろ、そういう見方でこのエピソードを語っています。

しかし、これを単に「偉人伝」「成功譚」としてだけ語ってしまうのには一抹の違和感が残ります。

ビル・ゲイツが「光速の」意思決定を下せたのは、彼がマイクロソフト社の創業社長という、ほとんど専制君主に近い権力を持っていたからこそできたことであり、それら周辺事情を無視して、「見習いましょう」とはできない相談です(筆者はそうは言っていませんが)。

また、基本的にはプログラマーという、1人で取り組む仕事のタイムマネジメント術がこの本の主題であるのに対し、このエピソードは経営者の意思決定というフィールドであり、両者の仕事は次元が違うと言わざるをえません。

もちろん、本書の他の大部分は主題に沿ったものになっていますが。

 

ともあれ、この本には、実践的で役立つ知恵がふんだんに盛り込まれていることには間違いありません。自分なりの読み方で是非お手に取ってみてください。