空論オンザデスク

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子育て、親育てを中心としたブログ 教育本、子育て本、鉄道もの、プラレール、トミカ系おもちゃなども。

お相撲さんはなぜ威圧的でないのか

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通勤途中、駅前で数人の相撲取りを見かけた。
髷を結っていたから、関取に違いない。浴衣を着、雪駄や下駄を履き、静かに会話をしながら迎えか菜にかを待っていたのだろう。
至って物静かな感じながら、体格の大きさは圧倒的な存在感を持ち、周囲の視線を集めていた。しかし、そんな視線に気をかける風もなく、彼ら若者たちはただ若者らしく、いかにも仲間内の付き合いにならい、気楽に無邪気に談笑していたのだ。

お相撲さんたちは、どんな相手でも押し潰すことのできる圧倒的な力を持ちながら、なぜこんなにも静かな印象を与えるのだろうと思った。大きな体にみなぎる力をこうも感じさせないのは何だろう。
彼らの容姿は、レスラーやボクサーのように肉体を誇示するものではない。パワーの源である筋肉は、柔らかい脂肪に包まれ表には出ない。むしろ体格とまげは愛嬌のある風貌を演出し、さらに全身を覆い隠す浴衣は風流をさえ感じさせる。

岡倉天心茶の本」の中に言う。
「予として冬、川を渉るがごとく、猶として四隣をおそるるがごとく、儼としてそれ客のごとく、渙として冰のまさに釈けんとするがごとく、敦としてそれ樸のごとく、曠としてそれ谷のごとく、渾としてそれ濁るがごとし。」

「士にとって人生の三宝は、慈、倹、および「あえて天下の先とならず」ということであった。」

それは自制であり、自重の精神の表れではないか。相撲か神事であるのは、武士に茶の湯や禅を教え、その武力を倫理のなかに閉じ込めようとした古代の知恵と重なる部分があるのかもしれないと思った。それは悪知恵ではなく、一種の美学である。万物は流転し、力あるものも明日はどうなるか知れない。ならば誇示することに何の意味があるか。自らを押しつつみ、自然の前に謙虚であることが究極の美学なのだ。
村の若者たちが有り余るエネルギーの発散を求めて取っ組み合いをするのを見、どこかの賢人がこれを神に捧げようと思ったのに違いない。そうすることで、野蛮な力は獣性から解放され、美へと昇華する。相撲は技や力だけでなく、その生き方において美を体現する。だから恐ろしくないのだ。
というようなことを考えた。