空論オンザデスク

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夏目漱石「草枕」。オフィーリアと世間

「智に働けば角がたつ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。」
有名すぎる一節で始まる草枕は、漱石初期の作品群のなかで異色の小説だそうだ。小説のようで旅日記のような感じ。主人公の絵描き(画工)の口を借りて漱石自身のぼやきが聞こえてくる。

「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、そのうえ図々しい、いやな奴で埋まっている。元来何しに世の中へ面をさらしているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮き世の風に当たる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思っている。」

大文学者夏目漱石にして、この江戸っ子丸出しの啖呵きり。まるで下町の店屋のオヤジのようで、痛快さに思わずニヤリとする。

画工は旅先でひとりの女に出会う。
御那美という宿屋の娘、バツイチは毒蛾の羽と謎めかした態度で男と読者を誘惑する。ひそめやかした過去がまた興味をそそる。
そのふたりの会話の軽妙さが、さすがに漱石だと思わせるほどなのだ。

「私が身を投げて浮いているところを、―苦しんでいるところじゃないんです―やすやすと往生して浮いているところを、綺麗な画にかいてください。」
「え?」
「驚いた、驚いた、驚いたでしょう」
女はすらりと立ち上がる。三歩にして尽くる部屋を出るとき、顧みてにこりと笑った。
茫然たる事多時。

那美が自殺を仄めかした理由は、のちに繋がっていくのだが、この、池に身を投げるというイメージが男と読者の頭をとらえ、離れなくなってしまう。
赤々とした椿の花がぽたぽたと垂れ落ちる静かな池の表。グロテスクなまでに鮮烈な色の対比の中に、女が横たわり水に浸かって動かない。
ゆらゆらと白い着物がたゆたい、その下の方では水草どもが絡まりあっている。

オフィーリアは、長いあいだ憧れとも恐れともつかぬ想いで反芻し続けているイメージである。絶望と愛の涯に自らを水に投げた女の姿。ルドンのオフィーリアとウォーターハウスのオフィーリアが代わる代わる網膜に現れては、そこに椿の赤と着物の白が混ざりあい、なんともつかぬ混沌がぐるぐるとした。

ルドンのオフィーリアは、天使のような輝き。不幸の影はなく、死とは美であるといった趣なのだ。みずはどこまでも青くひかり、女の肌はけぶりを吹いたようにきめ細かく、身投げというよりも天上に迎えられた天女のよう。

ウォーターハウスのオフィーリアは、死への恐れとそれに勝る嘆き。思い詰める女の、ナマ身の艶がありありとしてい、そこに引き込まれる。死を描き、生の美しさを見せる。

漱石は、群を抜いた文筆力と博覧の知識を持ちながら、初期の作品においては文壇の主流というよりもむしろ大衆作家のようにとらえられていた。彼は異端児だったのだ。世間の評価のうるささに辟易していたという想像は当たっているのだろうか。
那美が謎めいた、生と死の美をめくるめくイメージとともに与え続けるオフィーリアとしての役割を終え、普通の女としての顔を露にしたとき、唐突に物語は終わる。
それはしがらみと日常に否応なく戻っていくことへの拒否だろうか。オフィーリアは水に命を捧げたからこそ、その美しさが永遠となる。月並みだが、憧れよりも愛着が良い。恐怖と裏腹の興奮より安らぎが良い。やがて風化する日常のなかに刹那の美はないが、物語は常にそこに続いていくのだから。