空論オンザデスク

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子育て、親育てを中心としたブログ 教育本、子育て本、鉄道もの、プラレール、トミカ系おもちゃなども。

宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」森鴎外「山椒太夫」

二つの物語を前後して読んだのは全くの偶然なので、これほどまでに似通った筋だったのには正直驚いている。
双方とも少年の成長物語であり、冒険譚なのだから。
時代は今とまったく違う。子供は、あくまでも無力で、親たちの保護は不安定だ。生きることさえ多大な労力と幸運が必要な環境で、親ともども運命に翻弄されずにはいられない。
人買いの魔の手は、そんな親の力が削がれたときに忍び寄り、とらえ、連れ去る。
しかし無力な少年はいつまでも無力なままではない。親の腕からもぎ取られむりやりに放り込まれた世間という場所で、広い世界を見、多くの経験を重ね、やがて成長する。彼らは健気さを武器に、大人たちがたどり着けない新しい視界を得る。大人が脱出できない堂々巡りの不幸の連鎖から、あっさりと抜け出て自分の使命をみつける。

一方は貴種流離譚の逆のような、もう一方は犠牲と救済の物語。けれどもどちらを読んでも、読後感は清々しさの一言しかない。宮沢賢治の夢は、現代の科学からすれば、ひやりとする危うさを孕んでいるものの、感動するほどに進歩的なのだ。そう、進歩。明日は今日よりも良くなるという確信が、力みも嫌みもなくするりと持てるのが少年というものだ。少年三日会わざれば刮目してみよ。その本性として成長を求める心には清々しさと頼もしさがある。
うちにも1人少年予備軍がいる。彼もまた、本能的に成長を志向している。今日、立ち上がれたら明日は一歩でも歩いてやろうとしている。挑戦することが楽しくて仕方がない様子で、何度しりもちをついても起き上がって歩き出そうとするのだ。そのときの夢中な笑顔。
育つもの、前を向くもの、乗り越えようとするもの。そういうものを見るとき、心が浮き立ち首のあたりがじんと痺れる。若さへのあこがれだろうか。それとも懐かしさだろうか。そうではないと信じたい。彼らの本能に、自分の本能が共鳴しているのだ。

山椒大夫

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