空論オンザデスク

空論オンザデスク

子育て、親育てを中心としたブログ 教育本、子育て本、鉄道もの、プラレール、トミカ系おもちゃなども。

銀河英雄伝説を読み返す。

銀河英雄伝説を読み返す

若いころむさぼるように読んでいた銀英を久々に読み返している。初代の徳間ノベルズ版がいつごろまで手元にあったのか、もう定かではないけれど、軽く20年は経っているに違いない。
ふとしたひょうしにオスカー・フォン・ロイエンタールの死んだ場面を強烈に思いだし、無性にそれを追体験したくなったのだ。Amazonで探したらKindle版があったので早速ダウンロードして即読み始めた。便利な時代になったものだとつくづく思う。
版元が転々と変わっているのは、名作と呼ばれる作品の宿命だろう。昨今の企業どうしの合従連衡、盛者必衰の目まぐるしさからみれば、名作の寿命はらくらくそれを乗り越えてしまうからだ。それにしても、出版はらいとすたっふ文庫とあり、挿絵や表紙絵がまったくないシンプルなデザインになっていて、このあたり発行にあたっていろんな経緯があったのだろうと推測してしまう。絵がないことに批判的なレビューもあったが、こと自分としてはむしろイラストなどないほうがいい。ノベルズ版の挿絵、道原かつみさんの漫画、アニメーション版のキャラクターなどが邪魔ものなどなく鮮やかに甦るからだ。

蛇足だが、3巻の中で、宇宙を航行する艦船や要塞というものは力学上球形ないし円形を基本としていなければならないという記述がある。これに今回初めて気がついた。であれば、挿絵やアニメや漫画で視覚化されたいかにもな宇宙戦艦たちはどうなるのだろう。それらがレールガンやスパルタニアンやワルキューレを吐き出す様を思い描いて胸をときめかせた自分はどうなるのだろうと一瞬茫然自失した。まあそれは蛇足なのだが。

今のところ黎明編、野望編と読み進めて雌伏編までたどりついた。改めて思うのは、この作品の展開の早さは尋常ではないということ。のちの田中作品のまどろっこしさとは一線を画し、必要な伏線をつぎつぎと配しながらもテンポよく話がすすむ。作者は初め一巻のみで完結する構想だったと聞いたことがあるが、それもそのはず。一巻の初めには12個艦隊あった自由惑星同盟軍は、その終わりではたったの2個艦隊しか残っていない。これが将棋だったらほとんど詰みの状態。ついに同盟が征服されるまでそれからさらに4冊を要するというのは、神がかったヤンの智謀がなければそこまで構想を広げられなかったにちがいない。

銀英には、その後の田中作品で登場するキャラクターたちの原型となる人物群が登場する。
なかでもヤン・ウエンリーは田中版ヒーローの典型ともいえ、権力嫌いと毒舌と可愛げのミックスは、各要素の配分比は異なるながらもその後の作品にほぼ必ず登場する。アルスラーン戦記のナルサス、灼熱の竜騎兵の参謀役(名前を忘れた)、創竜伝の四兄弟など数えればきりがない。彼らの共通項は、筆者田中芳樹氏の代弁者の役割をもっていることである。政治的主義主張、人生観、歴史観にいたるまで、氏の意見をその口から読者に伝える役割をもつ、作者の分身である。
だが一方で、ラインハルト・フォン・ローエングラムは全き孤高の存在である。彼のような人物はその後のどこにも登場しない。これほど極端なキャラクターを出すと、他の人物とのバランスが取りづらくなるのだろうか。苦悩しつつも覇王らしく覇王でありつづける人間は一人も出てこない。それが、銀英を他の作品と隔絶させているゆえんである。
作者も触れているように、この作品は帝国パートと同盟パートで雰囲気がちがう。シェイクスピアの作品に例えるなら、前者は「ハムレット」、後者は「夏の夜の夢 」。悲劇と喜劇ほどにかけ離れている。ことにラインハルトの存在が帝国パート全体を神話じみた幻想に包み込み、ひいては作品そのものに特異な輝きを与えているのだと思う。いうなれば彼は人間社会に舞い降りた神の子であり、それを主軸として物語が展開する以上、それは神話にならざるをえない。神話と人間社会が交錯し、しかも破綻しないなどという離れ業は、一回やったら十分だ。それ以上やったら書き手の精神が危うい。
それが、ヤン・ウエンリーが繰り返し登場しラインハルト・フォン・ローエングラムが二度と降臨しなかった理由なのだと勝手に合点したりした。

銀河英雄伝説1 黎明篇

銀河英雄伝説1 黎明篇

銀河英雄伝説2 野望篇

銀河英雄伝説2 野望篇

銀河英雄伝説3 雌伏篇

銀河英雄伝説3 雌伏篇