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子育て、親育てを中心としたブログ 教育本、子育て本、鉄道もの、プラレール、トミカ系おもちゃなども。

学歴フィルターについて 第2回

社会 教育

第1回はこちら

 

前回提示した、以下の疑問点について書きたいと思う。

 

・学歴は本当に学力に対応しているのか。
・学歴の高低は学生自身の責任だけに帰すのか。
・学歴フィルターはなぜ存在せねばならないのか。
・そもそもなぜ、学歴フィルターが問題なのか。

 
 

学歴は本当に学力に対応しているのか。

学歴とは、イコール最終学歴。つまりどこの大学もしくは大学院を出たか、である。大学には序列が厳然としてあり、出身大学の高低がそのままその人物の学歴の高低になる。けれども、大学の序列とは何か。入学試験の難易度である。入るのが難しい大学イコール序列の高い大学なので、なるほど難関大には優秀な学生が集まっている。
しかし、その優秀さというのは大学入学前のもので、就職活動をする時期とは約4年の開きがある。
20代前半の若者ならば、4年もあればいくらでも変わりうる。なのになぜ、わざわざ4年前の成績を持ち出して評価の基準とするのか。それは、大学そのものには学生をきちんと評価する仕組みがないからである。大学受験時の偏差値は覚えていても、大学の成績などさっぱり忘れてしまった、なんて人はざらにいる。それくらい、大学には社会が要請する育成、評価能力が欠如している。その帰結が入学試験の難易度による「学歴」である。

 
 

・学歴の高低は学生自身の責任だけに帰すのか。

 

「子供の学力と親の年収に相関関係がある」という話がある。

 

www.asahi.com

単なる統計データだと切り捨てることも可能だろうが、そうではないと私は思う。塾に通うか通わないかは、子供に圧倒的な学力差をつける。特に小学生でその差は顕著だ。中学受験に必要な力は、絶対に学校だけでは身に付けられない。「学力と階層」という本にもあったように、塾で高い学力をつけた生徒に学校の授業が牛耳られ、ついていけない層が増大している。基礎的な読み書き計算の段階でつまづいてしまったこれらの生徒たちにこそ手が差し伸べられるべきなのに、親は日々の生活に必死で、ほとんどが放置されてしまっている。
親の属する階層が子供の学力となって表れ、その子の属する階層を決定していく。これは格差の固定化を意味しないか。私立の中高一貫校は、6年間の指導期間を生かして大学受験のための指導を徹底的に行う。けれど、公立の高校は3年しかない。公立の復権などといっても、制度上の有利不利は厳然としてある。親の収入が少なく、高校まで公立で、その結果入学することになった大学の序列は、はたしてその学生の努力の結果だと単純に決めつけてしまっていいのだろうか。

 

学力と階層 (朝日文庫)

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・学歴フィルターはなぜ存在しなければならないのか。

現在の就職活動はネットの時代だ。説明会もエントリーも、リクナビ日経ナビなどのナビゲーションサイトを通して行われる。一昔前のハガキや電話の時代とは違い、応募に必要な手間がかからないため、何千、何万という学生が一つの企業に応募できてしまう。企業側は、選考に入る前になんらかの方法で人数を減らさなければ、物理的に人事部の稼働能力を超えてしまうのである。そこで、手っ取り早い「ふるい」が必要で、それが学歴だということである。こういう現象が悪いということではないが、これは、「新卒で一流企業に入らなければならない」という強迫観念のような強烈なバイアスが働いているからだと言わざるをえない。「7割は課長にさえなれません」という本にあったように、日本の雇用制度は流動性が著しく低い。新卒で入った会社を一度退職したら、再就職でそれ以上の収入を得ることはとても難しい。一流と言われる企業に入れた場合と、そうでない企業に入った場合と、非正規雇用になった場合とで、スタートの段階でついた差が、そのまま生涯所得に反映されてしまう。これが、日本の学生が新卒採用に命をかけなければならない理由なのである。一度ついたケチは一生付いて回る。日本の社会は再チャレンジが難しい社会になってしまった。

 

7割は課長にさえなれません (PHP新書)

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・そもそもなぜ、学歴フィルターが問題なのか。

親の収入に大きく影響される中、高の学力。大学入学時にすでに決定される「学歴」。そして新卒で決まった立ち位置がそのまま生涯の収入を決めるシステム。これこそが学歴フィルターが問題となる理由である。学力による競争の良し悪しではなく、一度ついた勝負が一生固定化し、さらにその次の代にもついて回るという格差の固定化こそ真の問題点ではないだろうか。敗者復活が望めない社会は衰退していく、とは塩野七生氏がヴェネツィアの興亡を描いた大作において示唆したことである。大人として、学生たちの嘆きを一蹴するのではなく、その裏に現れつつかる問題に対して、取り返しがつかなくなる前に正対するべきではないだろうか。