空論オンザデスク

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「文明の衝突」は、冷戦後の世界をどのように規定したか

前回に引き続き「文明の衝突」の話です。

前回の記事

unbabamo189.hatenablog.com

文明の衝突

文明の衝突

 

 

冷戦後の国際秩序は文明間の対立構造を基本とする。

 

文明というのは、例えば古代ローマ文明とか、アステカ文明などのようにかつて存在し、滅びたものという印象があります。けれどここでの意味は、言語や宗教、人種、生活習慣などを共有する人類のグループのことです。

ハンチントンは、現在世界に

  1. 中華文明
  2. 日本文明
  3. ヒンドゥー文明
  4. イスラム文明
  5. 西欧文明
  6. ロシア正教会文明
  7. ラテンアメリカ文明
  8. アフリカ文明

の8つの文明が存在するとしています。もっとも、アフリカ文明については、西欧文明やイスラム文明に含まれてしまう場合があるとし、明確に存在するとは明言していません。

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8つの文明を色分けしたもの。(ブログ著者によるものなので間違いがあるかもしれません)

もちろん、日本がもっとも小さい「文明」です。

日本が一個の文明として独立するのならば、東南アジアはどうなのとか、朝鮮やモンゴルを中華文明のくくりに入れてしまうのはやや乱暴だとか、そういう細かいツッコミは入るでしょうし、当時もたくさん入ったでしょう。どこをどちらに入れるとか入れないとか、細かいところを突いたら話が始まらないので、ハンチントンはとりあえずこの8つとして「モデル」を作り、それらが相互作用によって衝突をするという説を立てたのです。

 

ともあれ、この説によると、世界は8つの文明グループに分かれており、それらの「断層線(フォルト・ライン)」に沿って紛争や戦争が起きやすくなるというのがハンチントンの主張でした。そのもっとも強力な根拠が、文化と文化的なアイデンティティが冷戦後の統合や分裂あるいは衝突のパターンをかたちづくっている。ということです。

どういうことでしょうか。

 

文化と文化的アイデンティティ

1993年に起こった旧ユーゴスラビア内戦。

現在の地図でいうと、スロベニアクロアチアセルビアボスニア・ヘルツェコビナ、モンテネグロマケドニアの六つの国に分裂した国で、東方正教系のセルビア人、西欧系のクロアチア人イスラム系のボスニア人の文化、宗教の違いから生まれた対立が激化して紛争に発展。民族浄化という、他民族の絶滅をもゆるしかねない最悪の状態に至り、人道危機も叫ばれた。結局、内戦終結に至って、連邦を構成していた国家は散り散りに分裂、独立することになり、今に至っています。

 

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↑黄色で塗りつぶしたところが旧ユーゴスラビアの領域。古くから多くの民族が暮らす地域でした。 

 

この内戦と、1991年以前の戦争との違いは何か。

ハンチントンはこう書きます。「西欧はボスニアイスラム教徒に意味のある支援をしなかった。セルビア人の残虐行為を非難したほどにはクロアチア人の残虐行為を非難しなかった。ロシアはセルビア人を支援し、イスラム諸国はボスニアを一致して支援した。」

 

つまり、

西欧=クロアチア人(西欧文明)

ロシア=セルビア人ロシア正教会文明)

イスラム諸国=ボスニア人イスラム文明)

というように、それぞれの文明に近い、もしくは属するグループが互いに結びつくという現象が起きました。これは、これまでの冷戦体制下では起こらなかったことです。なぜ、このようになってしまったのでしょうか。

単数形の文明と複数形の文明

ハンチントンは、ここで文明という言葉には単数形と複数形の二種類があると言います。

単数形の文明とは、いわゆる野蛮な状態、未開状態の対義語であり、西欧の語る普遍的な文明を指します。 社会生活を送る上で必要な様々なシステムが整い、大規模な社会が出現していることです。それに対し、複数形の文明とは、先ほどあがったような、言語や宗教、血縁、地縁、生活習慣などを共有する集団のことです。そして、冷戦が終わり、単数形の文明がもたらす価値はその重要性を失い、複数形の文明が存在感を強めてきたと言います。

なぜ文明が衝突するのか

ハンチントンは、

文明を定義する客観的な要素の中で最も重要なのは宗教である。

と主張します。この辺り、宗教感覚に疎い日本人にはなかなか理解が難しいところです。

信じる教えが違うということは、価値観から生き方、生活習慣の細々としたところまで、全てが違うと思っても良いくらい、神様の違いは根本的な違いを生みます。 たとえば、行儀が悪いとされる振る舞い、宗教上の禁忌です。そういうものの違いに無頓着だと、あっという間に軋轢と敵対心を育ててしまうのです。
 
冷戦があったころは、西側にはソ連という巨大な敵が、東側の国々にとってはアメリカというこれまた憎むべき敵がおり、何よりも敵を共有することが、異なる文明に属する人々を結びつけていました。
 
人間はみずからのアイデンティティを確認するために他者を求めます。自分という人間を理解するためには、「誰と違うか」という認識が必要です。海外旅行に行った時は、「自分は日本人だ。」と意識しますが、普段日本で生活している時はさほどではありません。同様に、男性が多い職場で働いている女性は、自分が女性であることを意識するでしょうし、異性がいない職場では、今度は年齢層の違いや趣味、趣向の違いが強く意識されるかもしれません。
このようにして、冷戦中は「西側である」、「東側である」ことが意識されていたのが、冷戦という枠組みが取り払われたことにより、昔からあった「文明」というものが改めて人々のアイデンティティを規定するようになったのです。
 
では、科学技術や経済発展などの恩恵により、世界的に近代化を遂げつつある中で、文明も次第に統合されて人類共通の、普遍的な文明が出来上がることはないのか。たとえばインターネットを通じて世界中の人々が同じ情報にアクセスできる今、その中からある程度共通の価値観が生まれ、いわゆる「地球市民」的な普遍的文明が生まれる余地はないのでしょうか。
 
ハンチントンは、これをかなり明確な形で否定します。なぜなら、情報は共有できても、そこから感じ取ることは全く違うからです。たとえば、イスラムを奉じるグループがテロを起こし西欧の人々を殺害したニュースが流れたとすると、西欧の世論は怨嗟と悲しみに、イスラムの世論は快哉と祝福に包まれ、両者の反応に置いて交差する点はないからです。もちろん例外的な事象はあるでしょうが、感じとり方が違うのは確かでしょう。
世界的通信手段は文明内の人々を結びつけることはありますが、文明の外に対してはより排外的な傾向を助長することになります。なぜなら、外部の文明の声に接すれば接するほど人は、「違い」を意識するからです。「アラブの春」はまさにその予言通りと言えるのでは無いでしょうか。
 
 
長くなりましたので今回はここまでとします。