空論オンザデスク

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学歴フィルターについて 第1回

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学歴フィルターとは、就職活動のさいに、企業が学生を学歴によって選抜に参加させるかどうかを決めること。多くは、中堅以下の大学の学生が企業説明会などに参加を申し込もうとすると満席になっていて断られるのに、一流大学の学生には空席ありと表示されるような、明示的ではない方法でふるい落しが行われるということ。

 
 

日本国憲法は、「人種、信条、性別、社会的身分または門地」による差別を禁じているが、学歴による差別は禁じていない。それは、これらが本人の意志によってはどうにもならないものであるからだ。これによる差別は民主主義の精神に反するのだ。しかし、学歴はそうではない。有力な大学に在籍しているということは、本人の努力の成果以外にはありえないし、企業が目標に向かって努力できる人材を求めるのは当然のことだからだ。

 

先日、ゆうちょ銀行の説明会に申し込んだ学生が、大学名を「※日東駒専」の大学を入力したら満席表示がでたのに、「東京大学」としたら受付られた、とTwitterに投稿した。これが多くの議論を盛り上げ、ネット上で話題になっている。

 

※主に首都圏の大学の入学試験時の難易度による序列を表す受験用語。上から、東大、京大、一橋大、東工大と最難関国公立。早慶上智(東京理科大が入ることもある)。MARCHと言われる、明治、青山、立教、法政、中央の上位私大(学習院東京理科大が入ってGTMARCHとも言われる。)、そしてそれに次ぐのが日東駒専。日大、東洋大駒澤大専修大である。この呼称はあまりにも便利で覚えやすいために、もうここ10年以上は固定化してしまっており、その弊害は計り知れない。例えば日大は巨大な規模を誇る大学であるために、どこのどの学部かによって天と地ほどの難易度の差がある。人気の学部はMARCHに食い込む実力を持っている。このくくりが定着してしまったことが、どれだけ多くの大学受験生を錯誤や失敗に追い込んだか知れない。

 

注釈が長引いてしまいました。

 

上の、学歴フィルターの話題にたいして、主として学生側からは「社会は汚れている。」「企業に幻滅した。就活やる気が失せた。」という声が上がっているのに対し、社会人側からは、「甘いことを言うな。」「社会はもともとそんな公平なものではない。当然だ。」という意見が寄せられているように思う。自分も社会人だから、なんとなく後者に寄った見方をしていた。

ここで有名な、福沢諭吉先生の名言を思い出したい。「天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらずといへり。」
これは、人間の平等を宣言したもののように読める。しかし、あまり知られていないが、こう続く。「けれど現実の人の世には貴賤さまざまな差がある。それはなぜか。人は生まれは同じだが学問をした人は世に出て活躍し、しなかった人は貧しく困窮するのである」と。福沢諭吉よりも前の時代、つまり江戸期までは、人は生まれに縛られ、身分が固定化しており、いかに優秀で努力しようと一介の農民が幕府の役職を登り詰めるのは不可能だった。けれどこれからは、学問をすればいくらでも人生が開ける。だからみな学問をしよう、という教えなのである。

 

学問のすすめ

学問のすすめ

 

  

学歴フィルターとは、まさにその教えを受け継いだものである。学歴は学力の現れそのものであるから、評価の基準として正当なものである。企業は正当な評価基準を持っているのだから、とやかく言われる筋合いはない。学生は社会を恨むのではなく、受験で努力しきれなかった自分を悔やみ、今の自分の持ち点で勝負するしかない、と思った。

 

しかしこれもまた一面的で短絡的な見方ではないか。ここには様々な観念が検証されることなく前提として用いられている。

 

・学歴は本当に学力に対応しているのか。
・学歴の高低は学生自身の責任だけに帰すのか。
・学歴フィルターはなぜ存在せねばならないのか。
・そもそもなぜ、学歴フィルターが問題なのか。

 

などである。文章が長くなりすぎたので、ここからは次の回で書きたい。

 

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