空論オンザデスク

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心の中に隠れたナショナリズムについて

ナショナリズム

 
nationalism の意味。1民族(独立)主義、2(時に批判して)国家主義国粋主義愛国心愛国主義(運動)。
 
今、人間の頭の中の感情を擬人化した映画が上映されているが、その中には、この「ナショナリズム」という特殊でありがなら普遍的な感情は含まれていないだろう。自分も、こんな、上にあるような辞書的な意味合いを持ったものが自分の内に潜んでいるなんて思いもよらなかった。
 

ナショナリズムは誰の心の中にもある

司馬遼太郎は、かつてナショナリズムとは、隣村の人間が自分の村の悪口を言っているのを聞いた時の、単純で素朴な怒りの気分がその起源だというような意味のことを言っていた。生まれ育った村に愛着を持ち、故郷に親しみ、生地に誇りを持つ人間誰しもが持つ素朴な気持ち、それがナショナリズムの根源だ。これが、国家や巨大な組織を牛耳る集団に利用されるようになると、激烈な引火性を持つ液体となって作用する。
 
たとえば、内政に失敗しつつある為政者がいたとする。このままでは自分に対する批判が高まって失脚に追い込まれかねない。そんな時、ちょうど良い隣国があった。以前から通商や外交面でなにかとライバル関係にある国だ。この国を取り上げ、自国との文化の違いを強調するキャンペーンを密かに展開する。ちょっとした違いでいい。結婚式の式次第の順番とか、学歴に対する考え方とか、家族制度のあり方とか、そういった違いを見せつけられた国民は、隣国に対する違和感を持つようになる。やがて、隣国民が自国に対してちょっとした悪口を言っている場面を取り上げ放送する。それだけでいい。それだけで、自国内の隣国に対する憎しみが芽を出し、あとは放っておくだけで双方に敵対心が生まれ、不満のはけ口は国内の政治家ではなく隣国になる。自分たちの生活が上手くいかないのは全てあいつらのせいだ、というわけだ。
 
そういうスキームが、歴史上なんども便利に利用され、その度にありとあらゆる国民が望みもしない(その時は望んでいるという幻想を持たされた)戦争に駆り立てられることになった。
 

ありふれたことで、ナショナリズムを体感する。

一応断りたいが、自分は現在の特定の国の誰かを批判しているわけではない。
ただ、先日のちょっとした体験によって、自分にもそういう、ナショナリズムという原始的な感情が宿っているのだと認識させられた。そういうことを言いたいだけだ。
 
その体験というのは、こういうことだ。
電車の中、どこかの駅で数人のグループが乗り込んでくる。性別とか年代とか風体とかは関係がない。この話の中で重要なのは、彼らがこの地域の人ではないということだ。明らかに他地域のイントネーションで話している。平たくいえば関西方面のどこかのアクセントだった。そこで出てきた話題が、自分の住んでいる地域の地名に対する揶揄だった。揶揄と言っても、あからさまに批判していたわけではない。ただ言っていたのは、「相模大野行きって、ここらへん相模って名前多くない?どんだけ広いの?」というセリフだけ。これだけなら、なんということもないただの雑談でしかない。けれど、それを聞いた自分の中にはある違和感がムクムクとわきあがってきた。軽い怒りの感情といってもいい。それをあえて言語化するなら、「田舎もんの余所者が偉そうな口聞くんじゃねえよ。」というものだ。
 
しばらく経って、自分の感情の正体に思い至って、ちょっとしたショックを感じた。自分の中にあったものがナショナリズムだと思った時、それがこれだけ些細な言動に過敏に反応するものなのかと愕然とした。ナショナリズムは素朴で、それだけを取れば無害な郷土愛のようなものだ。誰しもが持っているものなのかもしれない。しかし、自分の内に、自分の気づかぬ間に潜んでいて、これまでの様々な判断に影響を及ぼしていたのだとしたら、それはそれで衝撃の少なからぬことだった。