空論オンザデスク

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子育て、親育てを中心としたブログ 教育本、子育て本、鉄道もの、プラレール、トミカ系おもちゃなども。

もしバレンタインデーを目前にした女子高校生が「葉隠入門」を読んだら

今週のお題「バレンタインデー」

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風はまだまだ冷たいが、青空は澄み切って陽の光は暖かく、冬の終わりを感じさせるような2月のある日。ひなのは躍り上がるような自分を抑えきれない思いで浮き立っていた。同時に、そわそわしていてもたってもいられない不安感にも駆られていた。

あと1週間でバレンタインディだ。ひなのには意中の人物がいた。その人物はひなのの一つ上の先輩で、彼女の所属する陸上部では長距離のエースである。どちらかと言えば神経質なくらい走行ペースを崩さないことが持ち味で、美しい流れるような走行フォームの持ち主だった。
ひなのは入部したその日にその大江先輩の走行フォームを目の当たりにし、まさにその瞬間に心臓を射抜かれたのだった。
相手は高値の花。それは分かっていた。ただどうしても、今のこの自分の思いをほんの少しだけ、知って欲しかった。あの先輩の隣に自分の位置を占めようなどとおこがましいことは、もちろん夢の中を除いて、考えたことはなかった。
ひなのは得意のパウンドケーキを作り、それをこっそりと先輩のスポーツバッグの中に忍ばせるつもりだった。これなら恥ずかしい思いをすることもなく、自分の手になるものを相手の領域に入り込ませることができる。
 
当日にきっちりと完璧なケーキを作れるよう、今日はその予行演習をするつもりだ。どんなに味にうるさい先輩でも、この紅茶シロップを使ったパウンドケーキなら唸らせることができるはず。そう思ってキッチンに入る。必要なものを棚から出しながら手順を頭の中でおさらいする。すると、テーブルの上に一冊の古ぼけた文庫本があるのに気がついた。読書好きの父親が置き忘れたものだろう。何気なく手に取ってみると、「葉隠入門」三島由紀夫著、とある。タイトルや著者からは内容を推測することは全くできない。ただ、「葉隠」という言葉の持つ詩的でどこか儚さを感じさせる響きがひなのの興味をかき立てた。ひなのはページをめくってみる。
 
著者三島由紀夫という人のやや偏屈な独白がつらつらと書かれていて、なんとなく馴染めない感じだった。お父さんはこんな本のどこが気に入っているんだろう。友達は生き身の身体を持っていて、たえず変わっていく存在だから、変わらない存在である書物のほうが若い時の伴侶にふさわしい、なんて、随分人嫌いなんだなぁなどと思って本を閉じようとする。ぱらぱらともう一度だけページを繰ってみたそのとき、「忍ぶ恋」という文字が目に飛び込んできた。ひなのは興味を惹かれてその一節を読んでみる。
 
◯恋の極限は、「忍ぶ恋」である
(前略)この前、寄り合ひ申す衆に
話し申し候は、恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思い死にすることこそ恋の本意なれ。歌に、
恋死なん 後の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは
これこそたけ高き恋なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。
 
(訳)(前略)このまえ集まって来られた人たちに話したのは、恋の究極の姿は、忍恋ではないかということである。出会ってからでは、恋の内容は程度の低いものになってしまう。一生忍耐して思い死にすることが恋の本質だろう。歌に
恋死なん 後の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは
というのがある。この歌の境地こそ、もっとも風情ある恋というものだろう、といったところ、感心した人が四、五人いて、この歌の「後の煙にそれと知れ」をとって、煙仲間といわれたそうである。
 

 

これもまたなんていう偏屈な考えだろう。思いを告げなければ恋なんて意味がないのに、と驚く反面、そういえば自分も、自分であることを告げずに一方的にケーキを押し付けようとしていることに思い至った。
忍ぶ恋。思いを告げず、それを一生忍耐して自分の中にしまっておくなんて、できるわけがない。けれど、この不器用すぎるくらい不器用な一節に惹かれる気持ちはなんだろう。
 
ひなのは不思議な思いに駆られながらキッチンで黙々と作業をした。心ここにあらずの状態だったので、パウンドケーキは最悪の出来だったが、家族はおいしいおいしいと言って食べてくれた。
テーブルの向かいに座って、パサパサのケーキを上機嫌で頬張る父の顔を見る。お父さんは「忍恋」のところをどう読んだのだろう。思い切って聞いてみると、
顔色を変えて、「お前、だれか好きな人がいるのか?誰だ?」と問い詰めるばかり。辟易して自分の部屋に逃げ込んだ。
 
父はひなのを溺愛している。そのおかげでひなのにはきょうだいがいない。愛情がばらけたらひなのがかわいそうだ、の一点張りで、父はこれ以上子供を増やすことを拒否したそうだ。
ベッドに倒れこんだひなのは、忘れられない一節を思い出す。
一生忍んで思い死にすることこそ本意なれ。
ひなのは桜が舞い散るイメージを思い浮かべる。「葉隠」の言っていることは、激しくて極端。だが、不思議な魅力がある。まるで、美しく舞い散る桜の花びらのよう。散る様の美を表現するためだけに、自分の全てを投げ出して後悔しない。だれも見ていなくてもいい。「後の煙にそれと知れ」思いを告げずに死んでも後悔しない。ただ一瞬にたちのぼる煙。遺体を燃やす煙だろうか。その煙の姿に耐え忍び耐え続けた究極の美が宿るだけである。その煙のイメージにとらわれたまま、ひなのはちゃっかり失敬してきた「葉隠入門」を読みふけり始めた。
 
あれから、「忍恋」の響きはひなのの心をとらえてやまない。ついにバレンタインディその日がやってきて、学校に行く道の途中でも、ひなのは考え続けた。鞄の中には綺麗にラッピングされたパウンドケーキが入っている。今度は集中して作ったのでなかなかの出来ばえだと思う。これを大江先輩のスポーツバッグの中に忍ばせる。ファスナーを開け、包みをそっと入れ、ファスナーを閉める。その動きの一つ一つを脳裏に思い浮かべるたびに、本当にこれでいいのかと自問自答する。もう一週間前の高揚した気持ちは消えてしまった。
 
普段通りのバス停でおりて、いつものように校門をくぐり、平素と変わらない教室に入る。表面上はいつもと変わらない風景だが、何か空気がちがう。どことなくそわそわした雰囲気が漂っている。すでにそこかしこで渡したとかもらったとかの話がささやかれ、それが風に乗って流れてくる。これまでのひなのは割と積極的にそういう話に乗るタイプだったが、今日はそうではない。
こんな感じは嫌だな、とひなのは思う。頭の中で響き渡る「葉隠」の鋭敏で潔癖な言葉たちに比べて、この教室のピンクっぽい雰囲気はものすごく低俗な気がした。
 
そんな雰囲気のまま授業が終わり、放課後になった。ひなのにはもうどうすればいいのか分からない。迷路にはまり込んだ思いを抱えながら、部室で着替えてグラウンドに出る。まだ誰も来ていない。浮ついた空気が充満している校舎内に比べて、ここは静かで落ち着いた。アップをして、一人で走り始める。トラックを周回するたびにペースを上げていく。先輩をお手本にして研究したペース配分を忠実に守ることだけを考え、いつしか自分の呼吸の音だけが聞こえるようになる。視界には何も入らず、何も感じない。もっと集中したくて、真っ白になりたくて、ひなのは同じペースのまま走り続けた。これまでこんなに本気で練習したことなんてないくらいだ。脳裏から鞄の中にあるものが消えていく。「忍恋」への憧憬が強くなり、さらにそれすらも白く霞み始めた頃、目の
 前がふっと暗くなりそのままぐにゃりと回転してまた眩しい光が降り注いだ。
 
気がついたら保健室のベッドだった。自分の実力も考えず無理をしたらしい。保健の先生にひどくたしなめられた。あなたを連れてきてくれた上級生はひどく慌てていたのよ、とひなのよりその人を心配しているような口ぶりだった。
そんなことを話している内に、ドアが開いてその人物が入ってきた。あまり心配そうな顔をしているわけではなさそうだが、かといって全然気にしていないわけでもなさそうだった。その顔を見たときに、ひなのの中で何かが動いてあるべきところに収まった。
そしてひなのはその人物の顔をまっすぐに見てある言葉を口にした。その人はややびっくりして、ついでに保健の先生もちょっとあっけにとられた顔をしていた。その後にひなのの耳に響いてきた言葉を、ひなのは一生忘れられないだろうと思った。
 
 
◯何事も、死ぬ気でやることだ
「武士道は死狂いなり。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの。」と直茂公仰せられ候。本気にては大業ならず。気違ひになりて死狂ひするまでなり。又武士道に於いて分別できれば、はや遅るるなり。忠も孝も入らず、武士道に於いては死狂ひなり。この内に忠孝はおのづから籠もるべし。

 

「忍恋」もいいけれど、一生をかけるつもりで、「死狂ひ」するのも良い。結局は、どんな教えもどう受け取るかだ。パウンドケーキが誰の胃に収まるかはもどうでも良いことなのだ。

 

 

葉隠入門 (新潮文庫)

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