子供の喧嘩に親が出るのはなぜか
2歳とか3歳の幼児の世界でも、「うちの子に何してくれるんだ」的な親の介入はあるんだなあと思った出来事です。
先日、妻が息子(3歳)を公園に連れて行った時のこと。
場所は滑り台。息子の他にもう少し小さい女の子(2歳くらい)が遊んでいたそうです。幼児の世界の1歳違いは大人の10歳違いぐらいなもので、できることがまるで違います。滑り台を滑るにも、年長のほうがテキパキ進みます。息子は滑り台の上で女の子を脇に押し、自分が先に滑りました。割り込みですね。
そのしばらく後に、女の子の親と思える男性がやって来て、息子に接近し、その結果、その男性の足に息子の足が引っかかり、息子がちょっとよろけました。男性は、「ごめんね」的なことを言ったそうです。
ここまでが事実。
妻は、息子が女の子を押した時、あまり強くは注意しなかったそうです。「順番だよ」と言っただけです。上述したように、公園では年齢差のある子供が1つの遊具で遊ぶことはよくあることで、年齢差が反応速度にそのまま現れますから、追い越しや接触、押しのけくらいは日常茶飯事です。子供同士のことは子供同士で。たとえちょっとケガをさせられたとしても、親が口を挟むことではないし、大きなことにならないようにだけ、きちんと見守る、というのがうちの考え方です。もちろん違う考え方の方もいるはずです。
もう1つ、男性が息子に接近した時は、女の子は別の場所に居て、男性が息子に近づく理由はないように見え、近づき方も不自然だった。明らかに「わざと」足を引っ掛けたんだ、と妻は見ています。
もちろんこれは主観であり、妻にはそう解釈する感情的理由がいくらでもあるため、確実にそうだと言い切ることはできません。
1つの事実と、1つの価値観、1つの解釈ですから、見方が一方的になることを承知の上で、このことを考えてみたいのです。
もし、自分が男性の立場だったらどうでしょう。自分の娘が滑り台の上で見知らぬ子供にぐいと押された。危ない場所だし、相手は男の子でしかもちょっと大きい。しかも、男の子の親は大して叱ろうともしない。どんなに人格者であれ、何かしらの怒りを感じないわけはありません。
その結果として、何らかの行動に出たくなる。けれどその行動に出す出し方が問題です。
もし仮にこれか故意だったとしたら、恐ろしく幼稚な行動に出たもんだと言わざるを得ません。まさに目には目を。短絡的近視眼的な仕返しで、自分の子供も幼児なら、相手の男性も幼児だったというだけであり、このような幼児化した大人が社会で普通に暮らしているということは、それはそれで大きな問題なのでしょうが、これは今私が言おうとしていることではありません。
子供同士のなんらかのフィジカルな衝突は、大人同士よりもはるかに起こりやすいものです。大人はめったなことがない限り物理的な力を行使することはありません。だから、自分の子供がえい、とやられているのを見ると、ものすごく理不尽なことに感じてしまう。相手の子供が「悪い」のに、なぜ罰を受けないのか。ということです。
私も、子供を遊ばせている間に、何度かこういう感覚を味わったことがありました。
私たちは、法と秩序によって守られた社会に暮らしており、ここでは「公平」という価値観が支配しています。
私たち大人は、公平であるはずだ、という固定観念を空気のように纏って暮らしています。けれど、子供にはそんなものはありません。ただ、目の前の滑り台を滑りたい、というような欲求が、その時々であるだけです。衝突がおこって、痛ければ泣くし、痛くなくなればまた遊びに戻るという、至ってシンプルなものでしょう。
そういうことなのかなと思いました。
アクティブラーニングが言葉だけになる理由
新学習指導要領の、間違いなく重要な柱の1つとなるのが、「アクティブラーニング」ですね。
私もそれなりに知っておかなくてはと思い、ひとまず本書を読んでみました。
この道の先駆者である方が書いたもののようですし、ざっくりとして分かりやすいというレビューも多かったので。
アクティブラーニング入門 (アクティブラーニングが授業と生徒を変える)
- 作者: 小林昭文
- 出版社/メーカー: 産業能率大学出版部
- 発売日: 2015/04/25
- メディア: 単行本
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「アクティブラーニング」とは、これまでの「講義を聴いてノートを取る」という「受動的な学習」ではなく、学習者が自ら学びを行うという能動的な学習方法を指し、具体的には調べる、話し合う、発表するなどの形態をとること。という定義だったかと思います。
調べる、話し合う、発表する、とかいうと、私なども小学校のころ、社会科で新聞作りなどをした記憶がうっすらとあるので、そんなものかなと思っていました。
筆者が言うには、アクティブラーニングというのは、学習者の能動的な学習を言うのだから、「完全に一方的な講義以外の全ての授業が当てはまる」ということでした。かなり広い解釈ですが、こう理解することで、アクティブラーニングが何か得体の知れない難しいものだという忌避感を減らすことはできそうです。
筆者は高校の物理の先生をやってらして、日々の授業の中で試行錯誤しながらアクティブラーニングを実践されていた。その経験から書かれているので、非常に具体的かつ腑に落ちやすい内容です。
授業の構成は、解説15分、話し合い・演習問題35分、確認テスト15分です。
その日の学習内容を冒頭15分でやってしまうというのはなかなか非現実的な感じがしますが、板書は一切行わずパワーポイントで作成したスライドで授業を行う。ノートは取らせず、パワーポイントを印刷したプリントを配る、で、黒板に書いたりノートを取ったりする時間が省け、大幅に時間が節約できると言います。
演習問題では、教え合い、立ち歩きを推奨し、生徒だけで問題を解決させるようにします。このへんの微調整が筆者ならでは。問題が簡単すぎると議論が活性化しないし、難しすぎたり多すぎたりしても同じ。ちょうど良い難度と分量に調節するのは、経験値が要りそうです。
最後に確認テスト。振り返りも含めて、この時間が1番大切だと言います。授業に時間がかかったりすると、真っ先にカットしてしまいがちなパートですが、授業の中では最も重要で、解説を削ってでもやる価値はあるそうです。
さて、この本を読むにつけ、生徒が自分たちで学ぶ、というスタイルがきっちりと進行するには、授業実施者の綿密な計画が必要で、そのためには経験の蓄積が前提だということが分かります。
つまり、アクティブラーニングは理論ばかりを振りかざしていても全くダメで、学習者とのコミニュケーションの中で作り上げられていくものだということです。巷で取り沙汰されているアクティブラーニング系の書籍やノウハウも、教える側が取り込んで、噛み砕き、自分なりの方法論に落としこまないと、生きた授業にならないと思います。そういう意味では、ものすごく属人的でアナログな技術だと思います。このノウハウの継承には、対人研修や経験者によるメンター制度などが不可欠でしょう。
とすれば、次世代の教育とは、一周回って初めに戻る。つまり古代以来の徒弟制度のようになっていくのかもしれません。
ハードボイルドとはこういうことか
ハリー・ボッシュシリーズの存在を、今まで知らなかったことが信じられない。
ハリーといえばポッターくらいしか思い浮かばなかったけれど、大人の読むべきハリーはこっちだった。長年の勘違いを痛感した読書体験だった。
ハリー・ボッシュを知るきっかけになったのが、amazonプライムビデオの「BOSCH」。
独占配信です。他では見れません。
現在セカンドシーズンまで配信されています。サードがなかなか出てこないので、ちょっと心配。
「ハードボイルド小説」と聞いて、何を思い浮かべますか?
タフでニヒルなガイが敵を倒して正義を実現する、そんなイメージですよね。
ボッシュも例にもれず、ハードボイルドの類型にきっちりと当てはまるキャラクターではあります。
けれど、自分がこれまでこのカテゴリーを敬遠してきた最大の理由である、「超人生」が全く見られないことが、すんなり目を開かされた要因でした。
ハリーの正式な名は、「ヒエロニムス」。「アノニムス(無名の、無記名の)」 と韻が同じ。「韻が同じ」と言われても、日本人の私にはピンとこないですが、ボッシュは名前について尋ねられるたびにこう答えるので、きっとアメリカ人にとってはすんなりな説明なんでしょう。
母親は娼婦。10代前半で母親と引き離され、強制的に施設に入れられ、そのたった1人の母もまもなく失う。ベトナム戦争を戦い、後に警官になりと、ハードな人生の中で、数え切れない喪失を味わってきた人物として描かれています。
そして第1作目から数巻分は、すべて煎じ詰めれは喪失の物語です。
この上何をなくせば良いのだろう、と言うくらいです。戦友、恋人、同僚、家、職等々。作者マイクル・コナリーは、非情なほどに次々と失わせながら、ボッシュをして「使命」へとひた走らしめます。まるで、孤独の中にこそ真実があると言わんばかりに。
- 作者: マイクルコナリー,Michael Connelly,古沢嘉通
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 1992/10
- メディア: 文庫
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- 作者: マイクルコナリー,Michael Connelly,古沢嘉通
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第1作、「ナイトホークス」はまさに孤独の物語だと思います。
もちろん刑事物ですから、どんでん返しの推理や手に汗握るアクションもこみこみで、しかし一方では「孤独」が際立った色彩を、与えている作品です。
この巻のみならずシリーズ全体を通してキー・アイテムとなる絵画「ナイトホークス(夜ふかしをする人々)」が登場します。
ナイトホークス、つまり「夜鷹」。
ドラマ版は、小説版のキャラクターをかなり忠実に再現していると言えます。
原作とは異なった設定で、巧みに原作の世界観を描ききっています。
どちらもおすすめ。
自分の仕事に自信を持ちたいときに読む本
「 なぜ、あなたの仕事は終わらないのか」を読んで
なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である
- 作者: 中島聡
- 出版社/メーカー: 文響社
- 発売日: 2016/06/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本は、「仕事がほんとに終わらなくて困っている人」が読むべき本でなく、「仕事がちゃんと終わってる人」が、「あ、自分のやり方は間違ってないんだな」と確認するための本である。
と、えらそうに断定してしまいましたが、とかく世のビジネス書、自己啓発書というものは、すべからくそういう性質を持つものだと思います。
ビジネス書には、「まるっきり極論」も書いてなく、かといって「ベタベタな正論」もありません。世の中の常識としてまかり通っている正論に対し、ちょっと違った視点で切り込んで見せる。ちょっと今までとは違う寄り方で偏ってみる。そうすることで、「新しく見えて、かつ受け入れやすい」という内容になるんだと思いますし、あとは上手いタイトルと販売戦略がものを言うのでしょう。
そういう視点でみると、結局この本が言っているのは、「仕事は早めに取り組んで早めに仕上げる」ということであり、これは誰もが一度は言われたことがある「夏休みの宿題は早めにやってしまいなさい」ということとさしたる違いはないでしょう。
ところが、ここに「Windows95」の仕掛人という権威付けがあり、筆者の豊富な経験からもたらされる多彩なスパイスが本書に魅力的な味付けをしているんだと思います。
ビル・ゲイツのエピソード
特に、「ビル・ゲイツの意思決定は光速だった」という逸話は非常に興味深いものがありました。
Windows95の開発が行われていたころ、マイクロソフト社内には2つの開発グループがあり、互いに競い合っていたそうです。1つは「シカゴ・グループ」と呼ばれ、もう1つは「カイロ・グループ」と呼ばれていました。「シカゴ」はマイクロソフトの古参プログラマーから成り、いわば正統派。カイロは新参のスタッフから成り、コンピュータおたくやハッカーのような経歴を持つ人々からなる非主流派集団でした。
2つのグループの開発思想がマイクロソフト上層部の会議で俎上に上げられ、その場で即座に「シカゴ」のプランが却下されたそうです。
それまでマイクロソフトの一線で活躍していたエンジニアたちが、膨大な時間をかけて作ってきたものを、その場で切り捨てるという決断でした。
それが結果として、Windows95の大成功につながったとすれば、まさに神のような決断力でしょう。筆者もまた、自身が「カイロ」の一員だったという立場もあるにしろ、そういう見方でこのエピソードを語っています。
しかし、これを単に「偉人伝」「成功譚」としてだけ語ってしまうのには一抹の違和感が残ります。
ビル・ゲイツが「光速の」意思決定を下せたのは、彼がマイクロソフト社の創業社長という、ほとんど専制君主に近い権力を持っていたからこそできたことであり、それら周辺事情を無視して、「見習いましょう」とはできない相談です(筆者はそうは言っていませんが)。
また、基本的にはプログラマーという、1人で取り組む仕事のタイムマネジメント術がこの本の主題であるのに対し、このエピソードは経営者の意思決定というフィールドであり、両者の仕事は次元が違うと言わざるをえません。
もちろん、本書の他の大部分は主題に沿ったものになっていますが。
ともあれ、この本には、実践的で役立つ知恵がふんだんに盛り込まれていることには間違いありません。自分なりの読み方で是非お手に取ってみてください。
2020年の大学入試問題について
これまでにない大きな変革が行われると言われる大学入試改革について、自分なりに調べたことをまとめます。
文科相からは散発的にいろんな情報が出されていて、以前言われていたことがいつの間にか消えていたり、言われていなかったことが盛り込まれていたりと紆余曲折があります。だから余計にこんがらがってきて、自分のようなそれらを噛み砕いて説明しなきゃいけない人間にとってはあんまりありがたくない話です。
まず、石川一郎氏の書いた「2020年の大学入試問題」という本です。
かえつ有明中・高の校長をなさっているという著者の言葉は、さすがに教育現場の内側にいる人物の発言であり、それだけに重みがあります。
この本は、いち早く出版されたこともあり、まだ情報が多く出揃ってない段階でのあくまで予測的な内容に止まってはいるのですが、それでも、後から出される諸々の情報と、方向性においては一致していると見るべきです。
この本の中で、著者が最も強調しているのは「自分軸」というワードです。
多種多様な価値観があるなかで、自分はどんな立場に立ち、何を重んじる人間として表現するのか。それを、いわゆる「思考力・判断力・表現力」の向こうにある究極的な力として置いている点は、とてもユニークだと思いました。
何か問題が与えられて、それについて分析したり記述したりする場合、確かに自分の拠って立つ思想というか信条というかがというものが必ず必要なわけです。
例えば、グローバル化がテーマだった時に、歓迎するか反対するかはその人の育った環境や立場、世界観というものが大きく影響します。
一問一答式の知識だけが問われる問題では自分軸など必要ありませんが、何かについて自己表現する場合は、必ず必要です。
石川氏が著書の冒頭に取り上げ、全編を通して何度も言及するのが、下記、順天堂大医学部の小論文の問題です。
写真を見て、思うところを述べなさいという問題で、与えられた条件はそれだけです。
与えられたものがそれだけなので、解答は無限だと言わざるを得ません。
これをいったいどう採点するのか。
もちろん文章の一貫性、背景知識の豊富さ、思考の明晰さなどでしょうが、噂されたのは、内容から医師としての適性を判断するというものです。つまり、医師とは人物としても確かでなければならない。
たとえば、風船を見て、幼い頃は風船が好きだったとか書いたらマイナス評価なのでしょう。
そこで、ふと思い出すのが、都立桜修館中の作文の問題。
写真、イラスト、詩などが一つぽんと示されて、これを見てあなたの考えたことを書きなさいという問題です。
問題の形が酷似している上に、出題の思想も似通ったものがあると言えます。
公立学校として、公共利益に資する人物を養成する使命がある同校として、受検生がどういう自分軸を持っているのかを測りたい、というのが底流にあると私は考えます。
子供は働き方のバロメーター
本多勝一「殺される側の論理」ー日本を引っ掻き回した論客の代表作ー
本多勝一氏といえば、かつて朝日新聞社のエース記者として日本のジャーナリズムを牽引し、よくも悪くも数多くの論争を巻き起こした人物です。
近年では、朝日新聞の捏造疑惑に深く関与し、同じく代表作「中国の旅」で南京大虐殺を捏造したとも言われ、ネット上では本多氏を糾弾する発言が後を絶ちません。一方で、彼を擁護するサイトもいくつかあって、要するにものすごく嫌われている人物であり、同時にファンも根強くいるという、そういう人物です。
このブログでは、本多氏に対して政治的、思想的な賛否を論ずることはしません。
また、氏がかつて書いた作品が捏造を含むものかどうかを論ずる気はありません。
この、「殺される側の論理」という本を読んだ感想を記し、1960〜70年代の日本人がどういう思想的な環境にあったのかを知る手がかりにしたいという目的があるだけです。
ベトナム戦争をめぐる対米批判と論争
ベトナム戦争について
この本が書かれた時期は、ちょうどベトナム戦争が泥沼化した時期に当たります。後述する「ソンミ村事件」などが起き、大きく報道されたことにより、世界中で反戦運動が起こっていました。
ベトナムは、戦前フランスによって植民地支配され、「仏領インドシナ」とよばれていました。第2次世界大戦中の日本軍進駐を経て、日本の敗戦後は再びフランスの手に戻りましたが、ベトナムの人々はこれを拒否。「インドシナ戦争」と呼ばれる独立戦争が始まります。
大戦で疲弊したフランスに戦争を継続する余力はなく、後に宗主権をアメリカに譲ります。この後、アメリカの支援する南ベトナムと、社会主義国家を建設しようとする北ベトナムに分裂し、対立が行き詰まってついに戦争が勃発。
ホー・チ・ミンをリーダーとする北ベトナムは、ソ連、中国の支援もあり、またリーダーの指導力と人々の結束力において南を凌駕していたため、アメリカの支援にも関わらず戦争は北の有利に進みます。焦ったアメリカはついに本格参戦を決め、圧倒的な戦力をベトナムに投入します。これにより、すぐに決着がつくかと思われた戦争でしたが、北軍の神出鬼没のゲリラ戦に悩まされ、次第に泥沼化していきます。戦況の不利を打開するため、ゲリラ部隊の連絡ルートを襲撃したり、隠れ場所を掃討するためジャングルに枯葉剤を撒いたりとなりふり構わない手段に出始めたのが1970年代前半のことで、そうした中で起こったのが「ソンミ村事件」でした。
アメリカは、ゲリラ部隊の協力者を排除するため、ジャングルの中に点在する村々を排除していきます。村を粉々にされた住民たちは難民となって逃げなくてはなりません。これでも十分に悲劇ですが、ソンミ村では、住民のほとんどが虐殺されるという事件が起こってしまったのです。
ベトナム戦争は、長い間外国の支配と戦ってきたベトナム人にとっては独立を求める戦いでしたが、東西両陣営による冷戦の代理戦争としての性格もありました。アメリカはここで引いてしまったら東南アジアにおける東側の進出を許してしまうことになるし、そうなれば世界戦略上の大幅な不利を得ることになってしまう。したがってそう簡単には引き下がれない事情があります。そういった様々な状況が、長期にわたる戦争の被害を生み、このような事件が起こってしまったのです。
「ソンミ事件に潜むもの」
本多勝一氏は、「ソンミ事件に潜むもの」という短い記事で、この事件の背景には、アメリカ人の人種差別的社会構造があると指摘した。
ちょっと表現が過激なので引用は避けるが、要約するとアメリカは白人による他人種、他民族の支配によって成り立ってきた国であり、先住民族や黒人など多くの有色人種が隷属させられたり排除されたりと抑圧されてきた歴史がある。よって、アメリカの白人にはそもそも有色人種に対する差別意識があり、そういう意識(無意識)が、ベトナム人に対しても働いていて、それがこのような虐殺につながった。と主張している。
アメリカ人宣教師との公開討論
この記事に対して反論(質問の形を取っていたが)したのが日本に長く住んでいるアメリカ人宣教師のブレント氏。
彼は、本多勝一氏の主張があまりにも偏り過ぎていて、事実を歪曲して伝えてしまうおそれがあるレベルにまでなっている、と述べました。要するに、アメリカ人に人種差別意識が完全にないとは言えないが、ソンミ村事件の主要な要因だと断定するのは乱暴すぎるし、そんな証拠もない。戦争における残虐行為とは、古今東西どこの戦争でも多かれ少なかれ起こっているのだ、ということでした。
ここから、双方一歩も歩み寄らない誌上の論争が何回か続いていきます。互いの主張は拠って立つ価値観が完全に違うためひたすら平行線で、ただただ、特に本多氏のほうに顕著ですが、枝葉末節の重箱突きをしては論破した「感じになってる」印象が否めません。
曰く、あなたは日本の新聞社に手紙を書くのに英語(本多氏は意図して「イギリス語」という呼称を使う)を用いるが、それは人種差別だ、とか、あなたは私をクラーク氏と呼ぶが、クラークは私のファーストネームだから、それに「氏」をつけるのは滑稽ではないのか。など。
双方舌鋒が鋭いため、こういう足の引っ張り合いもそれなりに読み応えがあるのですが、やはり本質的なところで全く理解が深まることがなくケンカ別れのように討論は終了となります。
本多氏の拠って立つ立場とは、「抑圧されたものの怨み」です。米軍によって徹底的に破壊された戦争と、支配され抑圧された占領時代を経た「被害者」としての視点は、今の日本人には正直ちょっとわかりづらいものがあります。
ここに、双方の立場が別次元にあると分かる文章があります。
「偽りや不正に対してただ一つの効力ある武器は真理であり、正義である」と私(ブレンド氏)が書いた文章に対して、本多氏は「それはだれのための『真理』でしょう。だれの『正義』でしょう。」と質した。本多氏には、「だれの」という制限を付け加えなければ、真理とか、正義というものの存在を認めることが出来ないのでしょうか。本多氏の立場から考えてもいいが、人類の一部分のためではなく、全人類のための真理や正義がある。
「文明の衝突」でも同様のくだりがあります。支配的な西欧文明は文明というものを普遍的なものと考える。自分たちの価値観や正義というものが、全世界共通のものと信じて疑わない。一方、西欧の優勢に甘んじさせられてきた他の文明に属する人々は、自由や民主主義などというものは西欧からの押し付けに過ぎず、拒否するという。普遍主義対地域主義であるとも言えます。
そういう中でこの論争は起こり、かくのごとく終わったのですが、この種の問題は本多勝一氏に限らず、現在においてもいたるところに発生しています。
この本は、本多氏の舌鋒が鋭すぎて、もうこてんぱんという感じに論破しようとするので、読んでいて気味のよい感じはしません。しかし、現在の世界で何と何が対立しているのかを考える上では良いヒントをくれる本だと思います。