DMだけで幼児を夢中にさせるベネッセの卓抜したマーケティング
教育業界の「巨人」ベネッセはどのようにその地位を築いてきたかという話です。
自分の家では「こどもちゃれんじ」という定期購読の教材を0歳の時から取っています。「しまじろう」が出てくるあれです。きっかけはなんだったかというと、子供が生まれるタイミングで届いたDMです。なんでそんな良いタイミングでDMが届くのかというと、これまたベネッセが出版している「たまごクラブ」という雑誌でいろんな情報をもらうために読者登録したからです。
ベネッセは、生まれる前から大学受験まで切れ目なく、それぞれの年齢に合わせた教材を取り揃えているので、その間のどこかでアクセスする可能性が高い。そうすると「潜在顧客」としてDMが来るようになるんですね。
そして、このDMがまた創意工夫に満ち満ちている。
DM一つ取っても、思わず開封して中を見てみたくなってしまうんです。
これが先日届いた幼児用英語教材のDM。
しまじろうがでっかく「hello」とか言っていて、これを見た途端に子供が「開けてみる」とか言い出すほど、わくわく感を演出しています。
中にはもちろん英語教材のチラシが入っているんですが、
おまけとして入っているペーパークラフトが絶妙。
組み立てるとこんな感じです。
車のおもちゃにしまじろうを乗せて、付属のマップの上で遊べるようになっています。
結構ノリノリで「ブッブー」とかいって遊んでいました。
本コースを申し込むと、これの4倍の大きさのマップと車のおもちゃとしまじろうのぬいぐるみが届くそう。こういう「おためし感」もよく考えられていますね。
うちとしては、英語はもうちょっと日本語が話せるようになってからでいいかと思っていたんですが、将来的なグローバル化とか大学入試でスピーキングやディスカッションが入るとかの話を考えると、いずれは英語をやらせなきゃいけないのは認識しています。
英語って親が教えられないですからね。
そういう家庭って多そうだし、だからこそ広く浅くというベネッセのビジネスは成功しやすい。
まず、子供に興味をもたせて、興味を持っている子供の姿を見せることで迷っている親をぐらつかせる。人の心理が分かっていないとできないことです。
まさに理にかなったマーケティングだと思いませんか。
すごい会社だよなあとつくづく思う。
早稲田アカデミーの中学入試報告会に行ってきた
ケチな同業者としても、勢いのある塾は気になるもの。
早稲アカの今年の中学入試はどうだったんだろうかと説明会に参加してみました。
インパクト満点のオープニング
大体の塾は、こういう説明会を集客のチャンスと位置付けているので、広く一般公開でネットから簡単に申し込めて、しかも無料で入り込めるんですね。
今まで自分のところ以外の説明会に出たことがなく、大変新鮮な気持ちが話を聞けました。それはさて置き、内容はどうだったのか。
まずのっけから自慢で始まります。ばーん、という効果音こそしませんでしたが、最初の演者が出てくるときに確かにそんな音がこだましているように感じました。
でっかくスクリーンに、「単独塾として業界第2位の御三家中実績」と映し出しています。「単独塾として」という文言は、「四谷大塚には負けたがあそこはいろんな加盟塾の寄せ集めだから数には入れない」ということです。
まだSAPIXにはトリプルスコアで負けているが、高校入試で追い越したように、早晩ぶっちぎってやる、とぶち上げていました。
ここら辺の、闘争心むき出しの宣言を説明会の初っ端で行うあたりが早稲アカだなあと強く感じるところです。最近でこそ有名になって少し丸くなってきましたが、ひと昔前まではハチマキ締めてスパルタ教育が早稲アカのカラーでしたから。
とはいえ、ここまでの自信を見せられるとさすがに納得させられるし、ここに任せておけば、とりあえずついて行きさえすれば合格させてもらえそうだ、という安心感は得られます。まさに旭日の勢いを体現したような説明会でした。
入試問題分析の説明について
さすがに、早稲アカのエース級の人たちが説明してくれるので大変参考になりました。特に社会科の説明は秀逸でした。ご自身も吉祥寺校の責任者をされていて、直接指導された生徒さんたちの開成中合格率は80%、1校舎で13名合格させたというのは驚異としか言いようがないです。
その方もやはりというか受験社会科先生らしく、語呂合わせで持っていこうとするんですね。来年度の出題傾向のキーワードは、
「18番 おはこさ」
だそうです。18=18歳選挙権、お=オリンピック、は=函館、こ=国際関係(TPP)、さ=サミットということ。確かに、覚えやすい。
中学入試の社会科は、ややもすると時事問題が多く出て、そこが差になったりするので、今年話題になりそうなところ=重要ポイントということです。
確かに、選挙がある年は必ずそれに絡めた出題が多いし、オリンピックイヤーについても同じ。国際関係も王道ですし、新しい新幹線が通ると出題率も高くなります。いわば鉄板の分野です。アメリカ大統領選とかも捨てがたいとは思うんですが、やっぱり中学入試だと日本が直接関わらないニュースはあまり取り上げなかったりするんですね。
その他、気になった点
最初の演者の人は、「早稲アカは無駄に過去問を反復させない。御三家の問題は過去問を繰り返しやって答えを覚えてしまうような勉強では対応できない。常に新作の対策問題を山のように解かせて鍛えていく。」と言っていたが、その後の、算数の入試問題分析の演者さんは「過去問を重視し繰り返し定着させる」というようなことを言っていた気がします。
まあこれは、矛盾と言うよりも過去問の重要性と危険性の双方に考慮しているということの現れだと思います。過去問は大事ですが、そればかりやっていると頭が硬直してしまい、過去問以外の問題に対する対応力を損ねてしまうことになりかねません。なので、過去問対策をきっちりやりながら新作の問題でも鍛えるという線が有効なのかなと思います。
意外と分からなかった「著作権」について(その2)
前回の記事↓
著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A)
- 作者: 福井健策
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2010/01/15
- メディア: 新書
- 購入: 7人 クリック: 253回
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著者はどちらかというと、著作物を利用したい側の立場からこの本を書いている。
もちろん苦労して新しいものを作り上げた創作者の権利は保護するべきだが、情報や芸術というものは、多くの人が共有してこそ真価を発揮するものだ。そうやって人から人の手に渡ることで元々の作品がより進化したり、時代を超えて受け継がれていくのである。たとえどんなに素晴らしい作品でも、著作権の処理ができずに誰も利用できないとなれば、いずれ人々の記憶が風化し忘れ去られてしまう。
自分のものは使われたくないが、他人のものは使いたい。ー自己中と権利保護のバランスー
青空文庫は生き残れるのか。ー著作権保護期間延長の問題ー
前述したように、日本では創作者の存命中の全期間と死後50年まで著作権が保護される。この期間が経過した作品は著作権フリーとなり、誰でも自由に利用することができる。これを「パブリックドメイン」略してPDという。
PDになった作品をボランティアの手でデジタルデータ化し、無償で提供しているのが日本では有名な「青空文庫」である。それらはアマゾンのキンドルや楽天のkoboなど、ほとんどすべての電子書籍ブランドに利用され、手軽に無料で古典作品に親しめるという大きな社会的利益に貢献している。
しかし、死後50年というルールは日本でのもので、欧米では70年としている国が多い。世界標準に合わせて著作権保護期間を延長すべきとする意見も多い。すでに期間延長は既定路線で、いつから適用されるかという時間の問題に過ぎないという。もしそうなれば、すでに無償で提供されている作品のうちのかなりの部分が再び保護されるようになり、私たちはそれらの作品にこれまでのように手軽にアクセスできなくなってしまう。
まとめ
以上、見てきたように、著作権は創作者の意欲と権利を守るために必要不可欠なものでありながら、情報の共有による文化の発展を阻んでしまう要素も持っている。これを、どのようにバランスを取っていけばいいのか。
現状では少なくとも、利用する側より利用を阻む側の主張が通りやすい。なぜかといえば、海賊版や不正使用などで実際に被害を受ける創作者が多いからだ。まずはこれが適正に運用されるようになって、もっと双方が歩み寄りやすい著作権の考え方ができていくる。
意外と分からなかった「著作権」について(その1)
今回読んだ本はこちらです。
著作権の世紀
著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A)
- 作者: 福井健策
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2010/01/15
- メディア: 新書
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フィギュアに著作権はない? ー著作物かどうかの境界線ー
①単なるスナップ写真は、裁判所で争って著作物であると認められた。
②実用品のデザインは、基本的に著作物には当たらない。
③実用品だとしても、一点ものの作品や高度に芸術性があるものは著作物である
入試の過去問集が歯抜けなのは何故か。ー著作権処理の困難さの正体ー
・私的利用のための複製、図書館等における複製、引用・教科用図書等への掲載、教育機関における複製等、・試験問題としての複製等、視聴覚障害者のための複製等、・非営利目的の上演・上映・貸与等、政治上の演説等の利用、・事件報道のための利用、美術の著作物等の原作品所有権による展示、・公開の美術の著作物等の利用、プログラムの著作物の複製物所有者による複製等、ネットの検索事業者による複製等、その他
上記のような場合には、著作権者の許可なく利用することができる。
以外と、結構な範囲の例外規定がある。これらの中で、赤字の部分に注目したい。試験問題の中に使う分には著作権者の許可は必要ないが、それを改めて本にして出版するとなると話は別。きちんと許可を得なければならない。
死後50年が経って著作権が切れてしまった作品ならばそういう心配はないし、現在存命中の作者でも、利用を認めないポリシーをお持ちの人以外ならば許可を得るのは比較的容易だが、その間の人の場合は前述したように著作権処理が非常に困難になる。
結果、入試問題集の国語には、著作権処理が行えず、問題文だけが歯抜けとなってしまったものが少なくない。
そのくらい、著作権というのは強力かつ厚く保護されている権利なのだ。
長くなったので(その2)に続く
乳児退行かトラウマか。歩かなくなった2歳児。
歩かなくなる2歳児
我が息子、2歳7ヶ月になりますが、この度歩かなくなりました。
ハイハイが上手くなる2歳児
用心深い2歳児
「夜露死苦現代詩」の世界2 脱力系笑いの元祖ここにあり。点取り占いの異次元
第2章 点取り占い〜について
君はもっとえんりょしなければいけません
鳥にふんをひっかけられる
グライダーで飛んでからすと仲よしになった
おいもをたべすぎてお尻がやかましい
雨の降る日は天気が悪いとは知らなかった
何でもよいから教えてくれ
エレベーターに一人で乗るとこわいです
どんどんはしってどこえ行くかわからない
一番しみったれなのはだれだろう
目をむいて鼻の先をなめろ
あつくてあつくてユゲがでてくる
お前は三角野郎だ
夢と現実の二つ写し
関連記事
胃の腑をえぐるような言葉に出会いたければ「夜露死苦現代詩」を読め
ちくま文庫ってご存知でしょうか。
ヨロシク現代詩とはどんな本か
コンビニの前にしゃがんでいる子供が、いま何を考えているかといえば、「韻を踏んだかっこいいフレーズ」だ。60年代の子供がみんなエレキギターに夢中だったように、現代の子供にはヒップホップが必修である。だれも聞いたことがない、オリジナルな言葉のつながりを探して、「苦吟」するガキが、いま日本中にあふれている。国語の授業なんてさぼったままで。
「現代詩」というジャンルは、文芸界で言えばもはや死んだも同然かもしれない。しかしプロの詩人や評論家や学者たちが狭い業界に閉じこもってああでもないこうでもないと言っている間に、ストリートには新しい言葉が次々と生み出されている。
これまでの常識では、「詩」だとはとても認められない言葉たち。人生の苦しみのなかで、だれもが己の一切を表現しきる言葉を探しては吐き出している。それが詩だなどとは思いもせずに。筆者はそういう路上に無造作に垂れ流される言葉たちに目を向け、愛を注ぐことで「詩」というものの可能性を広げようとしている。
詩なんて良くわからない、という大多数の人に、実はあなただって毎日詩を紡いでいるのですよ、と気づかせてくれる本だ。
本書は一つ一つの章にそれぞれ別の世界が充てられているアンソロジー形式をとる。そのなかで、特に胃の腑をえぐられるような印象を受けた章を紹介したい。
第1章 痴呆系 あるいは〜について
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どういう文脈で登場したくだりなのだろうか。文脈などないのかもしれない。とにかくイメージ喚起力が凄まじいフレーズだ。この短い言葉一つから壮大な物語がいくつも作れそうだ。
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ドンドン燃えているじゃないか
地獄か煉獄か、はたまた世界の終末か。黙示録的な風景が描き出される。むごたらしさの裏に、なんとも言えない美しさがあるのはなぜだろう。
詩というものが、日常の言葉と非日常の言葉を結びつけ、それによって新たな世界を作るものだとすれば、詩句の創造には、こういった日常を既に脱した人々によってなされるのがふさわしいのかもしれない。筆者も同じようなことを言っている。しかし完全に此の世(日常的世界)の要素を失ってしまっては、このように心をえぐるような詩句にはならない。日常と写し重ねになった異世界、あるいは地獄の風景こそが私たちの心を撃つのだから。