「横浜駅SF」-地元愛と都市伝説愛、そして終末的世界愛-
あまりにも地元すぎるタイトルで久しぶりにジャケ買いしてしまった「横浜駅SF」。
なにやら人気沸騰中とのことで、特設サイトには重版の文字が踊ります。
筆者のイスカリオテの湯葉さんがこういうツィートをしたことがストーリー発生のきっかけだということ。
横浜駅は「完成しない」のではなく「絶え間ない生成と分解を続ける定常状態こそが横浜駅の完成形であり、つまり横浜駅はひとつの生命体である」と何度言ったら
— 柞刈湯葉(イスカリオテの湯葉) (@yubais) 2015年1月4日
確かに。横浜生まれ横浜育ち、横浜在住の自分にしても、工事中以外の横浜駅を見たことがないです。
これを「工事が遅い」と見ずに、常に変遷し続ける一種の生物のような存在と捉えれば、ものすごく合点がいく話ではあります。つまりこのツィートならびに小説のコンセプトは、横浜駅の「工事中」を見続けてきた地元住民にとって、思わず口元を斜めにしないではいられないような絶妙変化球であるのです。
あるとき突如自己増殖を始めた横浜駅は、周囲を取り込みながら膨張。ついに本州のほぼ全土を覆い尽くした。
本州人のほとんどはその巨大すぎる「エキナカ」で生活しており、体内に「suica」を埋め込まれて管理されている。
九州と北海道はそれぞれ海峡を隔てて横浜駅と対峙して終わりのない防衛戦を戦い、無政府状態と化した四国は、緩慢な侵略にさらされている。
そういう諸々の奇抜な設定こそがこの作品を際立たせている特徴であり、それだけで他はイマイチ、などという声も聞かれるけれど、これだけの大風呂敷を広げながらも一冊にまとめあげてしまうのだから、多少のご都合主義は仕方ないのではないか。必要な伏線は全て回収しきり、ラストはまずまずの読後感と言えます。
「横浜駅SF」の世界観は、この一冊だけで終わらせてしまうにはあまりに勿体無く、続編や別メディア、別作者によるエピソード発表など、多様な活用が望まれます。
と、話は逸れましたが、作品の真の主役たる「横浜駅」についてもう少し。
「絶え間ない自己増殖と膨張」とあるように、横浜駅には人間的な意志がなく、ごく単純な「本能」に従って成長する生物のように描かれています。
たとえばエキナカ世界では、様々な施設がひとりでに「生えて」きます。
そこらへんのメカニズムがどうなっているかは作品を手にとっていただきたいのですが、要は人間の意図によらず自律的に成長し続ける横浜駅自体には知性らしさはなく、一個の巨大な単細胞生物のような存在として描かれているということです。
高度なテクノロジーの集積でありながら、そのふるまいはむしろ原始的な生物のようであり、その辺りの対比的な構成に一種の皮肉を感じます。
ヒトの知性の行き着くところ、結局は回りまわって原初の海に戻るだけ、というような。
これまでにも、「人工的知性によって人類が制圧された世界」を描いた作品は数多く存在します。その多くは海外の作品ですが、例を挙げると、
・ターミネーターシリーズ・・・人工知能「スカイネット」が暴走。人類を絶滅させるため、「審判の日」を発動し、核攻撃を行う。機械に対する人類の絶望的な戦いの世界を描いた。
・マトリックスシリーズ・・・最終戦争によって日光を遮られ、光を失った世界で人工知能が下した選択は、「人間の栽培」だった。人体を行き交う微弱な電流をエネルギー源として利用、同時に人間の意識を人工的な仮想世界「マトリックス」に閉じ込め、機械が人間全てを管理しているという世界。
・ギャラクティカシリーズ・・・「サイロン」と呼ばれるロボット軍団によって人類の母星が破壊され、残されたわずかな人々の絶望的な逃亡戦が描かれる。
これらの作品の世界観と「横浜駅SF」が完全に異なっているのは、機械と人間が必ずしも対立構造ではないことです。海外産の人工知能ものがすべからく人間に敵対的であるのに対し、「横浜駅」は、知性のない、意思のない生命体的存在として、「エキナカ」で暮らす全ての人々を包摂している。それはむしろ「守っている」ようでもあり、その在り様には母性さえ感じてしまうのです。
「東洋と西洋の自然観の相違」とかで説明しようとすると、入試問題みたいになってしまうのでこれ以上はやめときますが、こういった対比を浮き立たせていくと、来たるシンギュラリティに対する見方の違いが分かっていいなぁと。
おまけ
その他の終末的世界を描いた作品群
横浜かぶりですが、話の方向性は全く違います。
「ウール 」シリーズ