プラレール「マスコン北海道新幹線」と3歳児
この8月、3歳になる息子の誕生日にとプレゼントされた、プラレールの「ぼくが運転!マスコン北海道新幹線はやぶさ」です。
確かに革新的なおもちゃだと思いました。特に、スマホで操作できるモードはゲームっぽい雰囲気もあるし、ちょっとした運転手気分も味わえます。
けれど、うちの場合、3歳という年齢もあり、まだ少し早かったかなと思います。
このおもちゃを遊びつくすには、「新幹線の運転手になりきる」という想像力が必要です。運転手さんの真似をして、車内放送ボタンで雰囲気を味わいながら、マスコンを操作して気分を出す、という、がっちゃんみたいな遊び方ができると良いんだろうなあと。
プラレール ぼくが運転!マスコン北海道新幹線はやぶさ【がっちゃん】
しかし、我が息子はマスコンをカコンカコンと倒してリモコンで操作するよりも、まだ手転がしで遊びたい精神年齢。せっかくのリモート操作も、これではあまり意味なしです。
プラレールは、結局のところ自分でレールを組み合わせて、自分だけのコースを作るのが醍醐味のおもちゃなのです。分岐や段差が複雑に組み合わさったレイアウトができたなら、そこをマスコンで操作する車両を走らせるのも楽しいでしょう。だから、もうちょっとその辺の経験を積んでいかないと、こういう高度なものは猫に小判で終わってしまう、ということがわかりました。
ということで、この手のプラレール系のおもちゃはしばらく買うのを控え、基本的なパーツを必要に応じて買い足していくことにしようと思います。
子供の喧嘩に親が出るのはなぜか
2歳とか3歳の幼児の世界でも、「うちの子に何してくれるんだ」的な親の介入はあるんだなあと思った出来事です。
先日、妻が息子(3歳)を公園に連れて行った時のこと。
場所は滑り台。息子の他にもう少し小さい女の子(2歳くらい)が遊んでいたそうです。幼児の世界の1歳違いは大人の10歳違いぐらいなもので、できることがまるで違います。滑り台を滑るにも、年長のほうがテキパキ進みます。息子は滑り台の上で女の子を脇に押し、自分が先に滑りました。割り込みですね。
そのしばらく後に、女の子の親と思える男性がやって来て、息子に接近し、その結果、その男性の足に息子の足が引っかかり、息子がちょっとよろけました。男性は、「ごめんね」的なことを言ったそうです。
ここまでが事実。
妻は、息子が女の子を押した時、あまり強くは注意しなかったそうです。「順番だよ」と言っただけです。上述したように、公園では年齢差のある子供が1つの遊具で遊ぶことはよくあることで、年齢差が反応速度にそのまま現れますから、追い越しや接触、押しのけくらいは日常茶飯事です。子供同士のことは子供同士で。たとえちょっとケガをさせられたとしても、親が口を挟むことではないし、大きなことにならないようにだけ、きちんと見守る、というのがうちの考え方です。もちろん違う考え方の方もいるはずです。
もう1つ、男性が息子に接近した時は、女の子は別の場所に居て、男性が息子に近づく理由はないように見え、近づき方も不自然だった。明らかに「わざと」足を引っ掛けたんだ、と妻は見ています。
もちろんこれは主観であり、妻にはそう解釈する感情的理由がいくらでもあるため、確実にそうだと言い切ることはできません。
1つの事実と、1つの価値観、1つの解釈ですから、見方が一方的になることを承知の上で、このことを考えてみたいのです。
もし、自分が男性の立場だったらどうでしょう。自分の娘が滑り台の上で見知らぬ子供にぐいと押された。危ない場所だし、相手は男の子でしかもちょっと大きい。しかも、男の子の親は大して叱ろうともしない。どんなに人格者であれ、何かしらの怒りを感じないわけはありません。
その結果として、何らかの行動に出たくなる。けれどその行動に出す出し方が問題です。
もし仮にこれか故意だったとしたら、恐ろしく幼稚な行動に出たもんだと言わざるを得ません。まさに目には目を。短絡的近視眼的な仕返しで、自分の子供も幼児なら、相手の男性も幼児だったというだけであり、このような幼児化した大人が社会で普通に暮らしているということは、それはそれで大きな問題なのでしょうが、これは今私が言おうとしていることではありません。
子供同士のなんらかのフィジカルな衝突は、大人同士よりもはるかに起こりやすいものです。大人はめったなことがない限り物理的な力を行使することはありません。だから、自分の子供がえい、とやられているのを見ると、ものすごく理不尽なことに感じてしまう。相手の子供が「悪い」のに、なぜ罰を受けないのか。ということです。
私も、子供を遊ばせている間に、何度かこういう感覚を味わったことがありました。
私たちは、法と秩序によって守られた社会に暮らしており、ここでは「公平」という価値観が支配しています。
私たち大人は、公平であるはずだ、という固定観念を空気のように纏って暮らしています。けれど、子供にはそんなものはありません。ただ、目の前の滑り台を滑りたい、というような欲求が、その時々であるだけです。衝突がおこって、痛ければ泣くし、痛くなくなればまた遊びに戻るという、至ってシンプルなものでしょう。
そういうことなのかなと思いました。
アクティブラーニングが言葉だけになる理由
新学習指導要領の、間違いなく重要な柱の1つとなるのが、「アクティブラーニング」ですね。
私もそれなりに知っておかなくてはと思い、ひとまず本書を読んでみました。
この道の先駆者である方が書いたもののようですし、ざっくりとして分かりやすいというレビューも多かったので。
アクティブラーニング入門 (アクティブラーニングが授業と生徒を変える)
- 作者: 小林昭文
- 出版社/メーカー: 産業能率大学出版部
- 発売日: 2015/04/25
- メディア: 単行本
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「アクティブラーニング」とは、これまでの「講義を聴いてノートを取る」という「受動的な学習」ではなく、学習者が自ら学びを行うという能動的な学習方法を指し、具体的には調べる、話し合う、発表するなどの形態をとること。という定義だったかと思います。
調べる、話し合う、発表する、とかいうと、私なども小学校のころ、社会科で新聞作りなどをした記憶がうっすらとあるので、そんなものかなと思っていました。
筆者が言うには、アクティブラーニングというのは、学習者の能動的な学習を言うのだから、「完全に一方的な講義以外の全ての授業が当てはまる」ということでした。かなり広い解釈ですが、こう理解することで、アクティブラーニングが何か得体の知れない難しいものだという忌避感を減らすことはできそうです。
筆者は高校の物理の先生をやってらして、日々の授業の中で試行錯誤しながらアクティブラーニングを実践されていた。その経験から書かれているので、非常に具体的かつ腑に落ちやすい内容です。
授業の構成は、解説15分、話し合い・演習問題35分、確認テスト15分です。
その日の学習内容を冒頭15分でやってしまうというのはなかなか非現実的な感じがしますが、板書は一切行わずパワーポイントで作成したスライドで授業を行う。ノートは取らせず、パワーポイントを印刷したプリントを配る、で、黒板に書いたりノートを取ったりする時間が省け、大幅に時間が節約できると言います。
演習問題では、教え合い、立ち歩きを推奨し、生徒だけで問題を解決させるようにします。このへんの微調整が筆者ならでは。問題が簡単すぎると議論が活性化しないし、難しすぎたり多すぎたりしても同じ。ちょうど良い難度と分量に調節するのは、経験値が要りそうです。
最後に確認テスト。振り返りも含めて、この時間が1番大切だと言います。授業に時間がかかったりすると、真っ先にカットしてしまいがちなパートですが、授業の中では最も重要で、解説を削ってでもやる価値はあるそうです。
さて、この本を読むにつけ、生徒が自分たちで学ぶ、というスタイルがきっちりと進行するには、授業実施者の綿密な計画が必要で、そのためには経験の蓄積が前提だということが分かります。
つまり、アクティブラーニングは理論ばかりを振りかざしていても全くダメで、学習者とのコミニュケーションの中で作り上げられていくものだということです。巷で取り沙汰されているアクティブラーニング系の書籍やノウハウも、教える側が取り込んで、噛み砕き、自分なりの方法論に落としこまないと、生きた授業にならないと思います。そういう意味では、ものすごく属人的でアナログな技術だと思います。このノウハウの継承には、対人研修や経験者によるメンター制度などが不可欠でしょう。
とすれば、次世代の教育とは、一周回って初めに戻る。つまり古代以来の徒弟制度のようになっていくのかもしれません。
ハードボイルドとはこういうことか
ハリー・ボッシュシリーズの存在を、今まで知らなかったことが信じられない。
ハリーといえばポッターくらいしか思い浮かばなかったけれど、大人の読むべきハリーはこっちだった。長年の勘違いを痛感した読書体験だった。
ハリー・ボッシュを知るきっかけになったのが、amazonプライムビデオの「BOSCH」。
独占配信です。他では見れません。
現在セカンドシーズンまで配信されています。サードがなかなか出てこないので、ちょっと心配。
「ハードボイルド小説」と聞いて、何を思い浮かべますか?
タフでニヒルなガイが敵を倒して正義を実現する、そんなイメージですよね。
ボッシュも例にもれず、ハードボイルドの類型にきっちりと当てはまるキャラクターではあります。
けれど、自分がこれまでこのカテゴリーを敬遠してきた最大の理由である、「超人生」が全く見られないことが、すんなり目を開かされた要因でした。
ハリーの正式な名は、「ヒエロニムス」。「アノニムス(無名の、無記名の)」 と韻が同じ。「韻が同じ」と言われても、日本人の私にはピンとこないですが、ボッシュは名前について尋ねられるたびにこう答えるので、きっとアメリカ人にとってはすんなりな説明なんでしょう。
母親は娼婦。10代前半で母親と引き離され、強制的に施設に入れられ、そのたった1人の母もまもなく失う。ベトナム戦争を戦い、後に警官になりと、ハードな人生の中で、数え切れない喪失を味わってきた人物として描かれています。
そして第1作目から数巻分は、すべて煎じ詰めれは喪失の物語です。
この上何をなくせば良いのだろう、と言うくらいです。戦友、恋人、同僚、家、職等々。作者マイクル・コナリーは、非情なほどに次々と失わせながら、ボッシュをして「使命」へとひた走らしめます。まるで、孤独の中にこそ真実があると言わんばかりに。
- 作者: マイクルコナリー,Michael Connelly,古沢嘉通
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 1992/10
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 16回
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- 作者: マイクルコナリー,Michael Connelly,古沢嘉通
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 1992/10
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第1作、「ナイトホークス」はまさに孤独の物語だと思います。
もちろん刑事物ですから、どんでん返しの推理や手に汗握るアクションもこみこみで、しかし一方では「孤独」が際立った色彩を、与えている作品です。
この巻のみならずシリーズ全体を通してキー・アイテムとなる絵画「ナイトホークス(夜ふかしをする人々)」が登場します。
ナイトホークス、つまり「夜鷹」。
ドラマ版は、小説版のキャラクターをかなり忠実に再現していると言えます。
原作とは異なった設定で、巧みに原作の世界観を描ききっています。
どちらもおすすめ。
自分の仕事に自信を持ちたいときに読む本
「 なぜ、あなたの仕事は終わらないのか」を読んで
なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である
- 作者: 中島聡
- 出版社/メーカー: 文響社
- 発売日: 2016/06/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本は、「仕事がほんとに終わらなくて困っている人」が読むべき本でなく、「仕事がちゃんと終わってる人」が、「あ、自分のやり方は間違ってないんだな」と確認するための本である。
と、えらそうに断定してしまいましたが、とかく世のビジネス書、自己啓発書というものは、すべからくそういう性質を持つものだと思います。
ビジネス書には、「まるっきり極論」も書いてなく、かといって「ベタベタな正論」もありません。世の中の常識としてまかり通っている正論に対し、ちょっと違った視点で切り込んで見せる。ちょっと今までとは違う寄り方で偏ってみる。そうすることで、「新しく見えて、かつ受け入れやすい」という内容になるんだと思いますし、あとは上手いタイトルと販売戦略がものを言うのでしょう。
そういう視点でみると、結局この本が言っているのは、「仕事は早めに取り組んで早めに仕上げる」ということであり、これは誰もが一度は言われたことがある「夏休みの宿題は早めにやってしまいなさい」ということとさしたる違いはないでしょう。
ところが、ここに「Windows95」の仕掛人という権威付けがあり、筆者の豊富な経験からもたらされる多彩なスパイスが本書に魅力的な味付けをしているんだと思います。
ビル・ゲイツのエピソード
特に、「ビル・ゲイツの意思決定は光速だった」という逸話は非常に興味深いものがありました。
Windows95の開発が行われていたころ、マイクロソフト社内には2つの開発グループがあり、互いに競い合っていたそうです。1つは「シカゴ・グループ」と呼ばれ、もう1つは「カイロ・グループ」と呼ばれていました。「シカゴ」はマイクロソフトの古参プログラマーから成り、いわば正統派。カイロは新参のスタッフから成り、コンピュータおたくやハッカーのような経歴を持つ人々からなる非主流派集団でした。
2つのグループの開発思想がマイクロソフト上層部の会議で俎上に上げられ、その場で即座に「シカゴ」のプランが却下されたそうです。
それまでマイクロソフトの一線で活躍していたエンジニアたちが、膨大な時間をかけて作ってきたものを、その場で切り捨てるという決断でした。
それが結果として、Windows95の大成功につながったとすれば、まさに神のような決断力でしょう。筆者もまた、自身が「カイロ」の一員だったという立場もあるにしろ、そういう見方でこのエピソードを語っています。
しかし、これを単に「偉人伝」「成功譚」としてだけ語ってしまうのには一抹の違和感が残ります。
ビル・ゲイツが「光速の」意思決定を下せたのは、彼がマイクロソフト社の創業社長という、ほとんど専制君主に近い権力を持っていたからこそできたことであり、それら周辺事情を無視して、「見習いましょう」とはできない相談です(筆者はそうは言っていませんが)。
また、基本的にはプログラマーという、1人で取り組む仕事のタイムマネジメント術がこの本の主題であるのに対し、このエピソードは経営者の意思決定というフィールドであり、両者の仕事は次元が違うと言わざるをえません。
もちろん、本書の他の大部分は主題に沿ったものになっていますが。
ともあれ、この本には、実践的で役立つ知恵がふんだんに盛り込まれていることには間違いありません。自分なりの読み方で是非お手に取ってみてください。
2020年の大学入試問題について
これまでにない大きな変革が行われると言われる大学入試改革について、自分なりに調べたことをまとめます。
文科相からは散発的にいろんな情報が出されていて、以前言われていたことがいつの間にか消えていたり、言われていなかったことが盛り込まれていたりと紆余曲折があります。だから余計にこんがらがってきて、自分のようなそれらを噛み砕いて説明しなきゃいけない人間にとってはあんまりありがたくない話です。
まず、石川一郎氏の書いた「2020年の大学入試問題」という本です。
かえつ有明中・高の校長をなさっているという著者の言葉は、さすがに教育現場の内側にいる人物の発言であり、それだけに重みがあります。
この本は、いち早く出版されたこともあり、まだ情報が多く出揃ってない段階でのあくまで予測的な内容に止まってはいるのですが、それでも、後から出される諸々の情報と、方向性においては一致していると見るべきです。
この本の中で、著者が最も強調しているのは「自分軸」というワードです。
多種多様な価値観があるなかで、自分はどんな立場に立ち、何を重んじる人間として表現するのか。それを、いわゆる「思考力・判断力・表現力」の向こうにある究極的な力として置いている点は、とてもユニークだと思いました。
何か問題が与えられて、それについて分析したり記述したりする場合、確かに自分の拠って立つ思想というか信条というかがというものが必ず必要なわけです。
例えば、グローバル化がテーマだった時に、歓迎するか反対するかはその人の育った環境や立場、世界観というものが大きく影響します。
一問一答式の知識だけが問われる問題では自分軸など必要ありませんが、何かについて自己表現する場合は、必ず必要です。
石川氏が著書の冒頭に取り上げ、全編を通して何度も言及するのが、下記、順天堂大医学部の小論文の問題です。
写真を見て、思うところを述べなさいという問題で、与えられた条件はそれだけです。
与えられたものがそれだけなので、解答は無限だと言わざるを得ません。
これをいったいどう採点するのか。
もちろん文章の一貫性、背景知識の豊富さ、思考の明晰さなどでしょうが、噂されたのは、内容から医師としての適性を判断するというものです。つまり、医師とは人物としても確かでなければならない。
たとえば、風船を見て、幼い頃は風船が好きだったとか書いたらマイナス評価なのでしょう。
そこで、ふと思い出すのが、都立桜修館中の作文の問題。
写真、イラスト、詩などが一つぽんと示されて、これを見てあなたの考えたことを書きなさいという問題です。
問題の形が酷似している上に、出題の思想も似通ったものがあると言えます。
公立学校として、公共利益に資する人物を養成する使命がある同校として、受検生がどういう自分軸を持っているのかを測りたい、というのが底流にあると私は考えます。