本多勝一「殺される側の論理」ー日本を引っ掻き回した論客の代表作ー
本多勝一氏といえば、かつて朝日新聞社のエース記者として日本のジャーナリズムを牽引し、よくも悪くも数多くの論争を巻き起こした人物です。
近年では、朝日新聞の捏造疑惑に深く関与し、同じく代表作「中国の旅」で南京大虐殺を捏造したとも言われ、ネット上では本多氏を糾弾する発言が後を絶ちません。一方で、彼を擁護するサイトもいくつかあって、要するにものすごく嫌われている人物であり、同時にファンも根強くいるという、そういう人物です。
このブログでは、本多氏に対して政治的、思想的な賛否を論ずることはしません。
また、氏がかつて書いた作品が捏造を含むものかどうかを論ずる気はありません。
この、「殺される側の論理」という本を読んだ感想を記し、1960〜70年代の日本人がどういう思想的な環境にあったのかを知る手がかりにしたいという目的があるだけです。
ベトナム戦争をめぐる対米批判と論争
ベトナム戦争について
この本が書かれた時期は、ちょうどベトナム戦争が泥沼化した時期に当たります。後述する「ソンミ村事件」などが起き、大きく報道されたことにより、世界中で反戦運動が起こっていました。
ベトナムは、戦前フランスによって植民地支配され、「仏領インドシナ」とよばれていました。第2次世界大戦中の日本軍進駐を経て、日本の敗戦後は再びフランスの手に戻りましたが、ベトナムの人々はこれを拒否。「インドシナ戦争」と呼ばれる独立戦争が始まります。
大戦で疲弊したフランスに戦争を継続する余力はなく、後に宗主権をアメリカに譲ります。この後、アメリカの支援する南ベトナムと、社会主義国家を建設しようとする北ベトナムに分裂し、対立が行き詰まってついに戦争が勃発。
ホー・チ・ミンをリーダーとする北ベトナムは、ソ連、中国の支援もあり、またリーダーの指導力と人々の結束力において南を凌駕していたため、アメリカの支援にも関わらず戦争は北の有利に進みます。焦ったアメリカはついに本格参戦を決め、圧倒的な戦力をベトナムに投入します。これにより、すぐに決着がつくかと思われた戦争でしたが、北軍の神出鬼没のゲリラ戦に悩まされ、次第に泥沼化していきます。戦況の不利を打開するため、ゲリラ部隊の連絡ルートを襲撃したり、隠れ場所を掃討するためジャングルに枯葉剤を撒いたりとなりふり構わない手段に出始めたのが1970年代前半のことで、そうした中で起こったのが「ソンミ村事件」でした。
アメリカは、ゲリラ部隊の協力者を排除するため、ジャングルの中に点在する村々を排除していきます。村を粉々にされた住民たちは難民となって逃げなくてはなりません。これでも十分に悲劇ですが、ソンミ村では、住民のほとんどが虐殺されるという事件が起こってしまったのです。
ベトナム戦争は、長い間外国の支配と戦ってきたベトナム人にとっては独立を求める戦いでしたが、東西両陣営による冷戦の代理戦争としての性格もありました。アメリカはここで引いてしまったら東南アジアにおける東側の進出を許してしまうことになるし、そうなれば世界戦略上の大幅な不利を得ることになってしまう。したがってそう簡単には引き下がれない事情があります。そういった様々な状況が、長期にわたる戦争の被害を生み、このような事件が起こってしまったのです。
「ソンミ事件に潜むもの」
本多勝一氏は、「ソンミ事件に潜むもの」という短い記事で、この事件の背景には、アメリカ人の人種差別的社会構造があると指摘した。
ちょっと表現が過激なので引用は避けるが、要約するとアメリカは白人による他人種、他民族の支配によって成り立ってきた国であり、先住民族や黒人など多くの有色人種が隷属させられたり排除されたりと抑圧されてきた歴史がある。よって、アメリカの白人にはそもそも有色人種に対する差別意識があり、そういう意識(無意識)が、ベトナム人に対しても働いていて、それがこのような虐殺につながった。と主張している。
アメリカ人宣教師との公開討論
この記事に対して反論(質問の形を取っていたが)したのが日本に長く住んでいるアメリカ人宣教師のブレント氏。
彼は、本多勝一氏の主張があまりにも偏り過ぎていて、事実を歪曲して伝えてしまうおそれがあるレベルにまでなっている、と述べました。要するに、アメリカ人に人種差別意識が完全にないとは言えないが、ソンミ村事件の主要な要因だと断定するのは乱暴すぎるし、そんな証拠もない。戦争における残虐行為とは、古今東西どこの戦争でも多かれ少なかれ起こっているのだ、ということでした。
ここから、双方一歩も歩み寄らない誌上の論争が何回か続いていきます。互いの主張は拠って立つ価値観が完全に違うためひたすら平行線で、ただただ、特に本多氏のほうに顕著ですが、枝葉末節の重箱突きをしては論破した「感じになってる」印象が否めません。
曰く、あなたは日本の新聞社に手紙を書くのに英語(本多氏は意図して「イギリス語」という呼称を使う)を用いるが、それは人種差別だ、とか、あなたは私をクラーク氏と呼ぶが、クラークは私のファーストネームだから、それに「氏」をつけるのは滑稽ではないのか。など。
双方舌鋒が鋭いため、こういう足の引っ張り合いもそれなりに読み応えがあるのですが、やはり本質的なところで全く理解が深まることがなくケンカ別れのように討論は終了となります。
本多氏の拠って立つ立場とは、「抑圧されたものの怨み」です。米軍によって徹底的に破壊された戦争と、支配され抑圧された占領時代を経た「被害者」としての視点は、今の日本人には正直ちょっとわかりづらいものがあります。
ここに、双方の立場が別次元にあると分かる文章があります。
「偽りや不正に対してただ一つの効力ある武器は真理であり、正義である」と私(ブレンド氏)が書いた文章に対して、本多氏は「それはだれのための『真理』でしょう。だれの『正義』でしょう。」と質した。本多氏には、「だれの」という制限を付け加えなければ、真理とか、正義というものの存在を認めることが出来ないのでしょうか。本多氏の立場から考えてもいいが、人類の一部分のためではなく、全人類のための真理や正義がある。
「文明の衝突」でも同様のくだりがあります。支配的な西欧文明は文明というものを普遍的なものと考える。自分たちの価値観や正義というものが、全世界共通のものと信じて疑わない。一方、西欧の優勢に甘んじさせられてきた他の文明に属する人々は、自由や民主主義などというものは西欧からの押し付けに過ぎず、拒否するという。普遍主義対地域主義であるとも言えます。
そういう中でこの論争は起こり、かくのごとく終わったのですが、この種の問題は本多勝一氏に限らず、現在においてもいたるところに発生しています。
この本は、本多氏の舌鋒が鋭すぎて、もうこてんぱんという感じに論破しようとするので、読んでいて気味のよい感じはしません。しかし、現在の世界で何と何が対立しているのかを考える上では良いヒントをくれる本だと思います。
DMだけで幼児を夢中にさせるベネッセの卓抜したマーケティング
教育業界の「巨人」ベネッセはどのようにその地位を築いてきたかという話です。
自分の家では「こどもちゃれんじ」という定期購読の教材を0歳の時から取っています。「しまじろう」が出てくるあれです。きっかけはなんだったかというと、子供が生まれるタイミングで届いたDMです。なんでそんな良いタイミングでDMが届くのかというと、これまたベネッセが出版している「たまごクラブ」という雑誌でいろんな情報をもらうために読者登録したからです。
ベネッセは、生まれる前から大学受験まで切れ目なく、それぞれの年齢に合わせた教材を取り揃えているので、その間のどこかでアクセスする可能性が高い。そうすると「潜在顧客」としてDMが来るようになるんですね。
そして、このDMがまた創意工夫に満ち満ちている。
DM一つ取っても、思わず開封して中を見てみたくなってしまうんです。
これが先日届いた幼児用英語教材のDM。
しまじろうがでっかく「hello」とか言っていて、これを見た途端に子供が「開けてみる」とか言い出すほど、わくわく感を演出しています。
中にはもちろん英語教材のチラシが入っているんですが、
おまけとして入っているペーパークラフトが絶妙。
組み立てるとこんな感じです。
車のおもちゃにしまじろうを乗せて、付属のマップの上で遊べるようになっています。
結構ノリノリで「ブッブー」とかいって遊んでいました。
本コースを申し込むと、これの4倍の大きさのマップと車のおもちゃとしまじろうのぬいぐるみが届くそう。こういう「おためし感」もよく考えられていますね。
うちとしては、英語はもうちょっと日本語が話せるようになってからでいいかと思っていたんですが、将来的なグローバル化とか大学入試でスピーキングやディスカッションが入るとかの話を考えると、いずれは英語をやらせなきゃいけないのは認識しています。
英語って親が教えられないですからね。
そういう家庭って多そうだし、だからこそ広く浅くというベネッセのビジネスは成功しやすい。
まず、子供に興味をもたせて、興味を持っている子供の姿を見せることで迷っている親をぐらつかせる。人の心理が分かっていないとできないことです。
まさに理にかなったマーケティングだと思いませんか。
すごい会社だよなあとつくづく思う。
早稲田アカデミーの中学入試報告会に行ってきた
ケチな同業者としても、勢いのある塾は気になるもの。
早稲アカの今年の中学入試はどうだったんだろうかと説明会に参加してみました。
インパクト満点のオープニング
大体の塾は、こういう説明会を集客のチャンスと位置付けているので、広く一般公開でネットから簡単に申し込めて、しかも無料で入り込めるんですね。
今まで自分のところ以外の説明会に出たことがなく、大変新鮮な気持ちが話を聞けました。それはさて置き、内容はどうだったのか。
まずのっけから自慢で始まります。ばーん、という効果音こそしませんでしたが、最初の演者が出てくるときに確かにそんな音がこだましているように感じました。
でっかくスクリーンに、「単独塾として業界第2位の御三家中実績」と映し出しています。「単独塾として」という文言は、「四谷大塚には負けたがあそこはいろんな加盟塾の寄せ集めだから数には入れない」ということです。
まだSAPIXにはトリプルスコアで負けているが、高校入試で追い越したように、早晩ぶっちぎってやる、とぶち上げていました。
ここら辺の、闘争心むき出しの宣言を説明会の初っ端で行うあたりが早稲アカだなあと強く感じるところです。最近でこそ有名になって少し丸くなってきましたが、ひと昔前まではハチマキ締めてスパルタ教育が早稲アカのカラーでしたから。
とはいえ、ここまでの自信を見せられるとさすがに納得させられるし、ここに任せておけば、とりあえずついて行きさえすれば合格させてもらえそうだ、という安心感は得られます。まさに旭日の勢いを体現したような説明会でした。
入試問題分析の説明について
さすがに、早稲アカのエース級の人たちが説明してくれるので大変参考になりました。特に社会科の説明は秀逸でした。ご自身も吉祥寺校の責任者をされていて、直接指導された生徒さんたちの開成中合格率は80%、1校舎で13名合格させたというのは驚異としか言いようがないです。
その方もやはりというか受験社会科先生らしく、語呂合わせで持っていこうとするんですね。来年度の出題傾向のキーワードは、
「18番 おはこさ」
だそうです。18=18歳選挙権、お=オリンピック、は=函館、こ=国際関係(TPP)、さ=サミットということ。確かに、覚えやすい。
中学入試の社会科は、ややもすると時事問題が多く出て、そこが差になったりするので、今年話題になりそうなところ=重要ポイントということです。
確かに、選挙がある年は必ずそれに絡めた出題が多いし、オリンピックイヤーについても同じ。国際関係も王道ですし、新しい新幹線が通ると出題率も高くなります。いわば鉄板の分野です。アメリカ大統領選とかも捨てがたいとは思うんですが、やっぱり中学入試だと日本が直接関わらないニュースはあまり取り上げなかったりするんですね。
その他、気になった点
最初の演者の人は、「早稲アカは無駄に過去問を反復させない。御三家の問題は過去問を繰り返しやって答えを覚えてしまうような勉強では対応できない。常に新作の対策問題を山のように解かせて鍛えていく。」と言っていたが、その後の、算数の入試問題分析の演者さんは「過去問を重視し繰り返し定着させる」というようなことを言っていた気がします。
まあこれは、矛盾と言うよりも過去問の重要性と危険性の双方に考慮しているということの現れだと思います。過去問は大事ですが、そればかりやっていると頭が硬直してしまい、過去問以外の問題に対する対応力を損ねてしまうことになりかねません。なので、過去問対策をきっちりやりながら新作の問題でも鍛えるという線が有効なのかなと思います。
意外と分からなかった「著作権」について(その2)
前回の記事↓
著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A)
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著者はどちらかというと、著作物を利用したい側の立場からこの本を書いている。
もちろん苦労して新しいものを作り上げた創作者の権利は保護するべきだが、情報や芸術というものは、多くの人が共有してこそ真価を発揮するものだ。そうやって人から人の手に渡ることで元々の作品がより進化したり、時代を超えて受け継がれていくのである。たとえどんなに素晴らしい作品でも、著作権の処理ができずに誰も利用できないとなれば、いずれ人々の記憶が風化し忘れ去られてしまう。
自分のものは使われたくないが、他人のものは使いたい。ー自己中と権利保護のバランスー
青空文庫は生き残れるのか。ー著作権保護期間延長の問題ー
前述したように、日本では創作者の存命中の全期間と死後50年まで著作権が保護される。この期間が経過した作品は著作権フリーとなり、誰でも自由に利用することができる。これを「パブリックドメイン」略してPDという。
PDになった作品をボランティアの手でデジタルデータ化し、無償で提供しているのが日本では有名な「青空文庫」である。それらはアマゾンのキンドルや楽天のkoboなど、ほとんどすべての電子書籍ブランドに利用され、手軽に無料で古典作品に親しめるという大きな社会的利益に貢献している。
しかし、死後50年というルールは日本でのもので、欧米では70年としている国が多い。世界標準に合わせて著作権保護期間を延長すべきとする意見も多い。すでに期間延長は既定路線で、いつから適用されるかという時間の問題に過ぎないという。もしそうなれば、すでに無償で提供されている作品のうちのかなりの部分が再び保護されるようになり、私たちはそれらの作品にこれまでのように手軽にアクセスできなくなってしまう。
まとめ
以上、見てきたように、著作権は創作者の意欲と権利を守るために必要不可欠なものでありながら、情報の共有による文化の発展を阻んでしまう要素も持っている。これを、どのようにバランスを取っていけばいいのか。
現状では少なくとも、利用する側より利用を阻む側の主張が通りやすい。なぜかといえば、海賊版や不正使用などで実際に被害を受ける創作者が多いからだ。まずはこれが適正に運用されるようになって、もっと双方が歩み寄りやすい著作権の考え方ができていくる。
意外と分からなかった「著作権」について(その1)
今回読んだ本はこちらです。
著作権の世紀
著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A)
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フィギュアに著作権はない? ー著作物かどうかの境界線ー
①単なるスナップ写真は、裁判所で争って著作物であると認められた。
②実用品のデザインは、基本的に著作物には当たらない。
③実用品だとしても、一点ものの作品や高度に芸術性があるものは著作物である
入試の過去問集が歯抜けなのは何故か。ー著作権処理の困難さの正体ー
・私的利用のための複製、図書館等における複製、引用・教科用図書等への掲載、教育機関における複製等、・試験問題としての複製等、視聴覚障害者のための複製等、・非営利目的の上演・上映・貸与等、政治上の演説等の利用、・事件報道のための利用、美術の著作物等の原作品所有権による展示、・公開の美術の著作物等の利用、プログラムの著作物の複製物所有者による複製等、ネットの検索事業者による複製等、その他
上記のような場合には、著作権者の許可なく利用することができる。
以外と、結構な範囲の例外規定がある。これらの中で、赤字の部分に注目したい。試験問題の中に使う分には著作権者の許可は必要ないが、それを改めて本にして出版するとなると話は別。きちんと許可を得なければならない。
死後50年が経って著作権が切れてしまった作品ならばそういう心配はないし、現在存命中の作者でも、利用を認めないポリシーをお持ちの人以外ならば許可を得るのは比較的容易だが、その間の人の場合は前述したように著作権処理が非常に困難になる。
結果、入試問題集の国語には、著作権処理が行えず、問題文だけが歯抜けとなってしまったものが少なくない。
そのくらい、著作権というのは強力かつ厚く保護されている権利なのだ。
長くなったので(その2)に続く
乳児退行かトラウマか。歩かなくなった2歳児。
歩かなくなる2歳児
我が息子、2歳7ヶ月になりますが、この度歩かなくなりました。
ハイハイが上手くなる2歳児
用心深い2歳児
「夜露死苦現代詩」の世界2 脱力系笑いの元祖ここにあり。点取り占いの異次元
第2章 点取り占い〜について
君はもっとえんりょしなければいけません
鳥にふんをひっかけられる
グライダーで飛んでからすと仲よしになった
おいもをたべすぎてお尻がやかましい
雨の降る日は天気が悪いとは知らなかった
何でもよいから教えてくれ
エレベーターに一人で乗るとこわいです
どんどんはしってどこえ行くかわからない
一番しみったれなのはだれだろう
目をむいて鼻の先をなめろ
あつくてあつくてユゲがでてくる
お前は三角野郎だ
夢と現実の二つ写し
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