椰子の実
椰子の實
島 崎 藤 村
”名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月
舊の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば
新なり流離の憂
海の日の沈むを見れば
激り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々
いづれの日にか國に歸らむ ”
「にほんごであそぼ」というEテレの番組をご存知だろうか。
わが家にはもうすぐ2歳になる幼児がいて、例によって「おかあさんといっしょ」から「いないいないばあ」につながる子供番組のお世話になっている。
「にほんごであそぼ」は、確かその後か二つ後くらいにやっている番組で、ふと気がつくとやっているような印象がある。古典の文章や技法を、子供でも楽しめるように工夫してくれているので、大人が見ていても勉強になる。
ちょっと前まで「べべんの方丈記」というのをやっていて、
”往く河の流れは絶えずして
しかも元の水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びぬ”
という、方丈記の書き出しのくだりを印象的な歌にしたのをやっていて、情感のある良い歌だと思っていたのだが、残念ながらもう放送していない。
閑話休題。
民俗学の巨塔、柳田国男が、療養中のこと、浜辺で流れ着いた椰子の実を見つけた。その話を伝えたところ、感銘を受けた藤村が詩を書いた。そういうエピソードも伝わっている。
自分もかつて読んだ柳田国男の「海上の道」の中に、この椰子の実のくだりがあったことを思い出す。もうかなり前のことなので曖昧な記憶になっているが、古代、海上を船ではるばると日本にやってきた人々に思いをはせた章であったと思う。「 汝(なれ)はそも波に幾月。」 故郷から遠くはるかに旅をして、同じく長い潮流の旅のはてに流れ着いたであろう椰子の実と出会う。我とこの実は、いまここで偶然に出会ったけれど、別離の哀しみと望郷の孤独を共に響かせあうものである。
故郷を思う心は、おそらく万人の胸をしめつけてやまない共有の感情ではないか。
生まれてからずっと同じところで生きている人でさえ、心の中にある故郷はきっと、今の姿とは全く別のものであるはず。故郷とは単に場所を指すものばかりではなく、時間の観念と心情的要素を抱えるものだからだ。
「椰子の実」を印象的にとりあげた小説として、 福井晴敏の「終戦のローレライ」を挙げたい。この作品への評価が一時の脚光で終わってしまったのは残念でならないが、きっとSF的な要素が多すぎたか、主要な人物の背景が暗すぎたのだろうと思う。個人的には、「永遠の0」よりも断然優れた作品だと思っている。
主人公の少年と少女は、ともに故郷を離れざるを得ない体験をし、また故郷に戻ることのできない事情がある。その出会いと、交感と、クライマックスにおいて椰子の実の旋律が印象的な関わり方をするのだが、あいにくと読んでからの時間が空きすぎて詳しく覚えていない。けれども、このうたの詩情を伝えるのに十分なストーリーだったと思う。
柳田国男「海上の道」
流れ寄る椰子の實一つ
故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月
舊の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば
新なり流離の憂
海の日の沈むを見れば
激り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々
いづれの日にか國に歸らむ ”
わが家にはもうすぐ2歳になる幼児がいて、例によって「おかあさんといっしょ」から「いないいないばあ」につながる子供番組のお世話になっている。
「にほんごであそぼ」は、確かその後か二つ後くらいにやっている番組で、ふと気がつくとやっているような印象がある。古典の文章や技法を、子供でも楽しめるように工夫してくれているので、大人が見ていても勉強になる。
しかも元の水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びぬ”
その、「にほんごであそぼ」で、今「椰子の実」の別アレンジを聴かせてくれる。
「椰子の実」は、島崎藤村が作詞を手掛け、長く国民唱歌として親しまれた唄だ。民俗学の巨塔、柳田国男が、療養中のこと、浜辺で流れ着いた椰子の実を見つけた。その話を伝えたところ、感銘を受けた藤村が詩を書いた。そういうエピソードも伝わっている。
生まれてからずっと同じところで生きている人でさえ、心の中にある故郷はきっと、今の姿とは全く別のものであるはず。故郷とは単に場所を指すものばかりではなく、時間の観念と心情的要素を抱えるものだからだ。
主人公の少年と少女は、ともに故郷を離れざるを得ない体験をし、また故郷に戻ることのできない事情がある。その出会いと、交感と、クライマックスにおいて椰子の実の旋律が印象的な関わり方をするのだが、あいにくと読んでからの時間が空きすぎて詳しく覚えていない。けれども、このうたの詩情を伝えるのに十分なストーリーだったと思う。
文中で取り上げた作品について



