空論オンザデスク

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サスペンス小説で学べる20世紀 「オデッサ・ファイル」より

ナチス親衛隊(SS)

ナチス親衛隊(SS)は、一言で言えばナチスドイツの災厄を代表するような組織です。

ナチスの突撃隊(SA)と親衛隊(SS)

 

SSとは、アドルフ・ヒトラーのもと、ハインリヒ・ヒムラーによって支配されていた、軍隊の中の軍隊、国家の中の国家ともいうべき存在で、一九三三年から一九四五年までドイツを支配したナチス第三帝国で特別の任務を担っていた。その任務とは第三敵国の保安にかかわる事柄であった。中でも最大の任務は、ドイツと全ヨーロッパから、ヒトラーが”生存に値しない”と考えたすべての要素を除去すること、”スラブの劣等種族”を永遠に奴隷化すること、そして老若男女問わずすべてのユダヤ人をヨーロッパから抹殺すること、というヒトラーの悪魔的野心の実現に努めることであった。

 

 「オデッサ・ファイル」 フレデリック・フォーサイズ著より

オデッサ・ファイル (角川文庫)

オデッサ・ファイル (角川文庫)

 

 

オデッサ・ファイル」について 

 

本書は、サスペンス小説であり、もちろん架空の人物も登場する、架空の物語です。

筋立てそれ自体にエンターテイメントの要素がありながら、実在の人物や組織も至る所で登場し、というか重要な要素となり、フィクションとノンフィクションが渾然一体になっています。そのあたり、筆者フォーサイズ独特の表現方法だそうなんですが。

 

舞台は1963年西ドイツ、ハンブルク。ルポライターのペーター・ミラーは偶然、ガス自殺した老人の日記を手に入れます。老人はかつてナチス強制収容所の囚人で、SSによるユダヤ人8万の虐殺を目撃。自身は生き延び、虐殺の責任者であり実行犯である「リガの屠殺人」、強制収容所長エドゥアルド・ロシュマンを探し出して裁きを受けさせることを誓った。しかし誓いもむなしく老人は失意のままに死亡。ミラーは老人の遺志を継ぎ、ロシュマン捜索に乗り出すが、旧SSメンバーを保護、隠蔽する組織「オデッサ(ODESSA Organisation Der Ehemaligen SS-Angehörigen)」の妨害を受け、ついには命を狙われながら、隠された旧SS戦犯メンバーを探し出す、というストーリー展開。

 

あえてフィクションとノンフィクションの部分に分けるとするなら、主人公でルポライターのペーター・ミラーによる捜索とか暗殺からの回避とか、その辺りのドタバタがフィクション。ロシュマンを始めとするSS隊員とその行い、組織オデッサ、SS戦犯の追及を実行し続けたシモン・ウィーゼンタールなどは、史実に忠実だと言われています。

 はっきり言って、フィクションの部分は期待はずれです。イケメンジャーナリストのミラーが愛車のジャガーを乗り回して手がかりを探す過程は、展開が一方的すぎてわざとらしいですし、ミラーが偶然に、何度も暗殺者の魔の手をかわす場面は、ご都合主義的すぎて見ていられないほどです。ラッキーもいいところで、そんなものを小説展開のメインに持ってこられたら、読んでる方はたまったものではありません。

そこらへんのプロットはさておき、この本の真の価値は、綿密な取材と洞察によって、組織オデッサと旧SS隊員たちの存在を世に知らしめたところにあります。

SSは、前の引用にもあるように、ナチスによる異民族の絶滅を計画し、実行した機関です。SSによって殺された人々は総計1400万人とも言われます。一口で言ってしまうには恐ろしすぎる数です。その行いは、もはや「戦争」と言えるようなものではありません。

そういう犯罪者集団が戦後のどさくさに紛れて名前を変え、公式に裁かれることなく普通に暮らしている。ある者は南米に逃亡し、ある者は東西ドイツに留まり続ける。そしてそれを助け、保護する秘密組織が隠然とした勢力を持っています。それがオデッサです。

なぜオデッサがそれだけの力を持ちえたか。それは巨額の資金があったからで、その資金は「絶滅」作戦のなかで犠牲者から奪い取った財産を集め、スイスの銀行に秘密裏に預けられ、貯め込まれていました。

無数の犠牲者の財産が、殺人者の生活を守るために使われるというのは、なんとも言い表すことのできない不条理です。こういうことが密かに組織的に行われていたということを、「小説」という形で誰にでも読みやすいように世の中に伝えられたというのは非常に意味のあることだったんではないかと思います。

 

戦争を起こした国の国民であることについて

 

これはドイツの話ですが、同じ第二次世界大戦の敗戦国として、日本にも同じような話はあったのではないかと思います。

「戦争を起こし、諸外国に多大な犠牲をもたらした国の国民」として、私たちは教育を受けてきました。

本書でも言われていますが、まだ戦後18年そこそこの時代のこと、現代よりもより濃密に戦争の記憶が残っていて、ドイツ人がドイツ人であるだけで反省を持たなければならないという意識が、全体を支配していたそうです。

しかし、シモン・ウィーゼンタール氏は、作中のセリフですが実在の人物なので、おそらく筆者の取材に対して実際に本人が言った言葉なのだと思いますが、「ドイツ人全体の罪などはない。殺した人間一人一人の罪があるだけだ」というようなことを言っています。氏は実際に、強制収容所の地獄を生き延びた元囚人で、「ドイツによる暴虐」を具体的かつ物理的に一身に受けた人です。

ウィーゼンタールはこう続けます。「ドイツ人全体に罪を着せることで、SSがそれを隠れ蓑にして逃げ切ろうとする。だれもが戦時中、黒いトラックに乗せられ連行されるユダヤ人たちを見ている。その人々は自分たちの隣人であり、友人であった。そういう後ろめたい思いを抱えて生きていると、同じようにSSの追及などはしたくなくなるものだ。もうなるべくなら思い出したくない、というように。オデッサはそういう人々の思いを利用し、追及の手を逃れようとしている。」

 

日本では近年、戦時中の戦争指導者を見直そうという動きが出てきているかと思います。より正確な記録を掘り起こし、事実を再検討することは重要だと思いますが、大量の死と不幸をもたらした戦争に、どのような事情があれその実行に関わった人々だということを忘れてはいけないのだと思います。