2020年の大学入試問題について
これまでにない大きな変革が行われると言われる大学入試改革について、自分なりに調べたことをまとめます。
文科相からは散発的にいろんな情報が出されていて、以前言われていたことがいつの間にか消えていたり、言われていなかったことが盛り込まれていたりと紆余曲折があります。だから余計にこんがらがってきて、自分のようなそれらを噛み砕いて説明しなきゃいけない人間にとってはあんまりありがたくない話です。
まず、石川一郎氏の書いた「2020年の大学入試問題」という本です。
かえつ有明中・高の校長をなさっているという著者の言葉は、さすがに教育現場の内側にいる人物の発言であり、それだけに重みがあります。
この本は、いち早く出版されたこともあり、まだ情報が多く出揃ってない段階でのあくまで予測的な内容に止まってはいるのですが、それでも、後から出される諸々の情報と、方向性においては一致していると見るべきです。
この本の中で、著者が最も強調しているのは「自分軸」というワードです。
多種多様な価値観があるなかで、自分はどんな立場に立ち、何を重んじる人間として表現するのか。それを、いわゆる「思考力・判断力・表現力」の向こうにある究極的な力として置いている点は、とてもユニークだと思いました。
何か問題が与えられて、それについて分析したり記述したりする場合、確かに自分の拠って立つ思想というか信条というかがというものが必ず必要なわけです。
例えば、グローバル化がテーマだった時に、歓迎するか反対するかはその人の育った環境や立場、世界観というものが大きく影響します。
一問一答式の知識だけが問われる問題では自分軸など必要ありませんが、何かについて自己表現する場合は、必ず必要です。
石川氏が著書の冒頭に取り上げ、全編を通して何度も言及するのが、下記、順天堂大医学部の小論文の問題です。
写真を見て、思うところを述べなさいという問題で、与えられた条件はそれだけです。
与えられたものがそれだけなので、解答は無限だと言わざるを得ません。
これをいったいどう採点するのか。
もちろん文章の一貫性、背景知識の豊富さ、思考の明晰さなどでしょうが、噂されたのは、内容から医師としての適性を判断するというものです。つまり、医師とは人物としても確かでなければならない。
たとえば、風船を見て、幼い頃は風船が好きだったとか書いたらマイナス評価なのでしょう。
そこで、ふと思い出すのが、都立桜修館中の作文の問題。
写真、イラスト、詩などが一つぽんと示されて、これを見てあなたの考えたことを書きなさいという問題です。
問題の形が酷似している上に、出題の思想も似通ったものがあると言えます。
公立学校として、公共利益に資する人物を養成する使命がある同校として、受検生がどういう自分軸を持っているのかを測りたい、というのが底流にあると私は考えます。
本多勝一「殺される側の論理」ー日本を引っ掻き回した論客の代表作ー
本多勝一氏といえば、かつて朝日新聞社のエース記者として日本のジャーナリズムを牽引し、よくも悪くも数多くの論争を巻き起こした人物です。
近年では、朝日新聞の捏造疑惑に深く関与し、同じく代表作「中国の旅」で南京大虐殺を捏造したとも言われ、ネット上では本多氏を糾弾する発言が後を絶ちません。一方で、彼を擁護するサイトもいくつかあって、要するにものすごく嫌われている人物であり、同時にファンも根強くいるという、そういう人物です。
このブログでは、本多氏に対して政治的、思想的な賛否を論ずることはしません。
また、氏がかつて書いた作品が捏造を含むものかどうかを論ずる気はありません。
この、「殺される側の論理」という本を読んだ感想を記し、1960〜70年代の日本人がどういう思想的な環境にあったのかを知る手がかりにしたいという目的があるだけです。
ベトナム戦争をめぐる対米批判と論争
ベトナム戦争について
この本が書かれた時期は、ちょうどベトナム戦争が泥沼化した時期に当たります。後述する「ソンミ村事件」などが起き、大きく報道されたことにより、世界中で反戦運動が起こっていました。
ベトナムは、戦前フランスによって植民地支配され、「仏領インドシナ」とよばれていました。第2次世界大戦中の日本軍進駐を経て、日本の敗戦後は再びフランスの手に戻りましたが、ベトナムの人々はこれを拒否。「インドシナ戦争」と呼ばれる独立戦争が始まります。
大戦で疲弊したフランスに戦争を継続する余力はなく、後に宗主権をアメリカに譲ります。この後、アメリカの支援する南ベトナムと、社会主義国家を建設しようとする北ベトナムに分裂し、対立が行き詰まってついに戦争が勃発。
ホー・チ・ミンをリーダーとする北ベトナムは、ソ連、中国の支援もあり、またリーダーの指導力と人々の結束力において南を凌駕していたため、アメリカの支援にも関わらず戦争は北の有利に進みます。焦ったアメリカはついに本格参戦を決め、圧倒的な戦力をベトナムに投入します。これにより、すぐに決着がつくかと思われた戦争でしたが、北軍の神出鬼没のゲリラ戦に悩まされ、次第に泥沼化していきます。戦況の不利を打開するため、ゲリラ部隊の連絡ルートを襲撃したり、隠れ場所を掃討するためジャングルに枯葉剤を撒いたりとなりふり構わない手段に出始めたのが1970年代前半のことで、そうした中で起こったのが「ソンミ村事件」でした。
アメリカは、ゲリラ部隊の協力者を排除するため、ジャングルの中に点在する村々を排除していきます。村を粉々にされた住民たちは難民となって逃げなくてはなりません。これでも十分に悲劇ですが、ソンミ村では、住民のほとんどが虐殺されるという事件が起こってしまったのです。
ベトナム戦争は、長い間外国の支配と戦ってきたベトナム人にとっては独立を求める戦いでしたが、東西両陣営による冷戦の代理戦争としての性格もありました。アメリカはここで引いてしまったら東南アジアにおける東側の進出を許してしまうことになるし、そうなれば世界戦略上の大幅な不利を得ることになってしまう。したがってそう簡単には引き下がれない事情があります。そういった様々な状況が、長期にわたる戦争の被害を生み、このような事件が起こってしまったのです。
「ソンミ事件に潜むもの」
本多勝一氏は、「ソンミ事件に潜むもの」という短い記事で、この事件の背景には、アメリカ人の人種差別的社会構造があると指摘した。
ちょっと表現が過激なので引用は避けるが、要約するとアメリカは白人による他人種、他民族の支配によって成り立ってきた国であり、先住民族や黒人など多くの有色人種が隷属させられたり排除されたりと抑圧されてきた歴史がある。よって、アメリカの白人にはそもそも有色人種に対する差別意識があり、そういう意識(無意識)が、ベトナム人に対しても働いていて、それがこのような虐殺につながった。と主張している。
アメリカ人宣教師との公開討論
この記事に対して反論(質問の形を取っていたが)したのが日本に長く住んでいるアメリカ人宣教師のブレント氏。
彼は、本多勝一氏の主張があまりにも偏り過ぎていて、事実を歪曲して伝えてしまうおそれがあるレベルにまでなっている、と述べました。要するに、アメリカ人に人種差別意識が完全にないとは言えないが、ソンミ村事件の主要な要因だと断定するのは乱暴すぎるし、そんな証拠もない。戦争における残虐行為とは、古今東西どこの戦争でも多かれ少なかれ起こっているのだ、ということでした。
ここから、双方一歩も歩み寄らない誌上の論争が何回か続いていきます。互いの主張は拠って立つ価値観が完全に違うためひたすら平行線で、ただただ、特に本多氏のほうに顕著ですが、枝葉末節の重箱突きをしては論破した「感じになってる」印象が否めません。
曰く、あなたは日本の新聞社に手紙を書くのに英語(本多氏は意図して「イギリス語」という呼称を使う)を用いるが、それは人種差別だ、とか、あなたは私をクラーク氏と呼ぶが、クラークは私のファーストネームだから、それに「氏」をつけるのは滑稽ではないのか。など。
双方舌鋒が鋭いため、こういう足の引っ張り合いもそれなりに読み応えがあるのですが、やはり本質的なところで全く理解が深まることがなくケンカ別れのように討論は終了となります。
本多氏の拠って立つ立場とは、「抑圧されたものの怨み」です。米軍によって徹底的に破壊された戦争と、支配され抑圧された占領時代を経た「被害者」としての視点は、今の日本人には正直ちょっとわかりづらいものがあります。
ここに、双方の立場が別次元にあると分かる文章があります。
「偽りや不正に対してただ一つの効力ある武器は真理であり、正義である」と私(ブレンド氏)が書いた文章に対して、本多氏は「それはだれのための『真理』でしょう。だれの『正義』でしょう。」と質した。本多氏には、「だれの」という制限を付け加えなければ、真理とか、正義というものの存在を認めることが出来ないのでしょうか。本多氏の立場から考えてもいいが、人類の一部分のためではなく、全人類のための真理や正義がある。
「文明の衝突」でも同様のくだりがあります。支配的な西欧文明は文明というものを普遍的なものと考える。自分たちの価値観や正義というものが、全世界共通のものと信じて疑わない。一方、西欧の優勢に甘んじさせられてきた他の文明に属する人々は、自由や民主主義などというものは西欧からの押し付けに過ぎず、拒否するという。普遍主義対地域主義であるとも言えます。
そういう中でこの論争は起こり、かくのごとく終わったのですが、この種の問題は本多勝一氏に限らず、現在においてもいたるところに発生しています。
この本は、本多氏の舌鋒が鋭すぎて、もうこてんぱんという感じに論破しようとするので、読んでいて気味のよい感じはしません。しかし、現在の世界で何と何が対立しているのかを考える上では良いヒントをくれる本だと思います。
意外と分からなかった「著作権」について(その2)
前回の記事↓
著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A)
- 作者: 福井健策
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2010/01/15
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著者はどちらかというと、著作物を利用したい側の立場からこの本を書いている。
もちろん苦労して新しいものを作り上げた創作者の権利は保護するべきだが、情報や芸術というものは、多くの人が共有してこそ真価を発揮するものだ。そうやって人から人の手に渡ることで元々の作品がより進化したり、時代を超えて受け継がれていくのである。たとえどんなに素晴らしい作品でも、著作権の処理ができずに誰も利用できないとなれば、いずれ人々の記憶が風化し忘れ去られてしまう。
自分のものは使われたくないが、他人のものは使いたい。ー自己中と権利保護のバランスー
青空文庫は生き残れるのか。ー著作権保護期間延長の問題ー
前述したように、日本では創作者の存命中の全期間と死後50年まで著作権が保護される。この期間が経過した作品は著作権フリーとなり、誰でも自由に利用することができる。これを「パブリックドメイン」略してPDという。
PDになった作品をボランティアの手でデジタルデータ化し、無償で提供しているのが日本では有名な「青空文庫」である。それらはアマゾンのキンドルや楽天のkoboなど、ほとんどすべての電子書籍ブランドに利用され、手軽に無料で古典作品に親しめるという大きな社会的利益に貢献している。
しかし、死後50年というルールは日本でのもので、欧米では70年としている国が多い。世界標準に合わせて著作権保護期間を延長すべきとする意見も多い。すでに期間延長は既定路線で、いつから適用されるかという時間の問題に過ぎないという。もしそうなれば、すでに無償で提供されている作品のうちのかなりの部分が再び保護されるようになり、私たちはそれらの作品にこれまでのように手軽にアクセスできなくなってしまう。
まとめ
以上、見てきたように、著作権は創作者の意欲と権利を守るために必要不可欠なものでありながら、情報の共有による文化の発展を阻んでしまう要素も持っている。これを、どのようにバランスを取っていけばいいのか。
現状では少なくとも、利用する側より利用を阻む側の主張が通りやすい。なぜかといえば、海賊版や不正使用などで実際に被害を受ける創作者が多いからだ。まずはこれが適正に運用されるようになって、もっと双方が歩み寄りやすい著作権の考え方ができていくる。
意外と分からなかった「著作権」について(その1)
今回読んだ本はこちらです。
著作権の世紀
著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A)
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フィギュアに著作権はない? ー著作物かどうかの境界線ー
①単なるスナップ写真は、裁判所で争って著作物であると認められた。
②実用品のデザインは、基本的に著作物には当たらない。
③実用品だとしても、一点ものの作品や高度に芸術性があるものは著作物である
入試の過去問集が歯抜けなのは何故か。ー著作権処理の困難さの正体ー
・私的利用のための複製、図書館等における複製、引用・教科用図書等への掲載、教育機関における複製等、・試験問題としての複製等、視聴覚障害者のための複製等、・非営利目的の上演・上映・貸与等、政治上の演説等の利用、・事件報道のための利用、美術の著作物等の原作品所有権による展示、・公開の美術の著作物等の利用、プログラムの著作物の複製物所有者による複製等、ネットの検索事業者による複製等、その他
上記のような場合には、著作権者の許可なく利用することができる。
以外と、結構な範囲の例外規定がある。これらの中で、赤字の部分に注目したい。試験問題の中に使う分には著作権者の許可は必要ないが、それを改めて本にして出版するとなると話は別。きちんと許可を得なければならない。
死後50年が経って著作権が切れてしまった作品ならばそういう心配はないし、現在存命中の作者でも、利用を認めないポリシーをお持ちの人以外ならば許可を得るのは比較的容易だが、その間の人の場合は前述したように著作権処理が非常に困難になる。
結果、入試問題集の国語には、著作権処理が行えず、問題文だけが歯抜けとなってしまったものが少なくない。
そのくらい、著作権というのは強力かつ厚く保護されている権利なのだ。
長くなったので(その2)に続く
「夜露死苦現代詩」の世界2 脱力系笑いの元祖ここにあり。点取り占いの異次元
第2章 点取り占い〜について
君はもっとえんりょしなければいけません
鳥にふんをひっかけられる
グライダーで飛んでからすと仲よしになった
おいもをたべすぎてお尻がやかましい
雨の降る日は天気が悪いとは知らなかった
何でもよいから教えてくれ
エレベーターに一人で乗るとこわいです
どんどんはしってどこえ行くかわからない
一番しみったれなのはだれだろう
目をむいて鼻の先をなめろ
あつくてあつくてユゲがでてくる
お前は三角野郎だ
夢と現実の二つ写し
関連記事
胃の腑をえぐるような言葉に出会いたければ「夜露死苦現代詩」を読め
ちくま文庫ってご存知でしょうか。
ヨロシク現代詩とはどんな本か
コンビニの前にしゃがんでいる子供が、いま何を考えているかといえば、「韻を踏んだかっこいいフレーズ」だ。60年代の子供がみんなエレキギターに夢中だったように、現代の子供にはヒップホップが必修である。だれも聞いたことがない、オリジナルな言葉のつながりを探して、「苦吟」するガキが、いま日本中にあふれている。国語の授業なんてさぼったままで。
「現代詩」というジャンルは、文芸界で言えばもはや死んだも同然かもしれない。しかしプロの詩人や評論家や学者たちが狭い業界に閉じこもってああでもないこうでもないと言っている間に、ストリートには新しい言葉が次々と生み出されている。
これまでの常識では、「詩」だとはとても認められない言葉たち。人生の苦しみのなかで、だれもが己の一切を表現しきる言葉を探しては吐き出している。それが詩だなどとは思いもせずに。筆者はそういう路上に無造作に垂れ流される言葉たちに目を向け、愛を注ぐことで「詩」というものの可能性を広げようとしている。
詩なんて良くわからない、という大多数の人に、実はあなただって毎日詩を紡いでいるのですよ、と気づかせてくれる本だ。
本書は一つ一つの章にそれぞれ別の世界が充てられているアンソロジー形式をとる。そのなかで、特に胃の腑をえぐられるような印象を受けた章を紹介したい。
第1章 痴呆系 あるいは〜について
※「痴呆 」という単語は現在社会的に使うことを不適切としていますが、ここでは原書のタイトルを尊重するためそのまま載せています。この後の下りでは引用でない限り置き換えて表現します。
老人病院に勤務する看護助手をしている人が、認知症に苦しむ老人たちの言葉を書き留めた本を、筆者が紹介したもの。
なんの脈絡もない単語どうしの組み合わせが、深い意図をこめられてかそれとも偶然の一致か、激しいインパクトと恐ろしいほどのリアリティをもった詩に変貌する。ベッドに横たわり、正気を失った目でなされるがままに下の世話をされながら、唐突にボソリとつぶやいた言葉だそうである。その意味も心情も測りかねるものの、ちょっとつつけば血が噴き出してきそうなほどの生々しさに満ちている。
目から草が生えても人生ってもんだろ
どういう文脈で登場したくだりなのだろうか。文脈などないのかもしれない。とにかくイメージ喚起力が凄まじいフレーズだ。この短い言葉一つから壮大な物語がいくつも作れそうだ。
力士が!力士が、なぜどこまで力士がやってくる
思わず噴き出さないではいられない。それはこっちが訊きたいよと突っ込みたくなる。
いつだって7人か9人の殺し屋が狙ったまま
窓の向こうで御無沙汰地獄してるんです
自分が命を狙われているという意味だとはわかるが、「御無沙汰地獄」がおどろおどろしいまでの破壊力を持っている。
あんた、ちょっと来てごらん
あんな娘のアゲハ蝶が飛びながら
ドンドン燃えているじゃないか
地獄か煉獄か、はたまた世界の終末か。黙示録的な風景が描き出される。むごたらしさの裏に、なんとも言えない美しさがあるのはなぜだろう。
詩というものが、日常の言葉と非日常の言葉を結びつけ、それによって新たな世界を作るものだとすれば、詩句の創造には、こういった日常を既に脱した人々によってなされるのがふさわしいのかもしれない。筆者も同じようなことを言っている。しかし完全に此の世(日常的世界)の要素を失ってしまっては、このように心をえぐるような詩句にはならない。日常と写し重ねになった異世界、あるいは地獄の風景こそが私たちの心を撃つのだから。
ブログかじりの読書虫
読書とは、楽しんでやるもんです。
一年で何冊読めば仕事の仕方がかわるとか、ビジネスパーソンはこの分野の本をこのペースで読まなきゃプロじゃないとか、読書を修行かなにかと勘違いした巷説が溢れていますが、そんなことを言われると読む気がなくなってしまう。
秋山真之の読書法