空論オンザデスク

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反教育論 猿の思考から超猿の思考へ ブックレビュー

本日取り上げる本は、「反教育論 猿の思考から超猿の思考へ」泉谷閑示 である。

 

反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書)

反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書)

 

道徳教育と心 

自分も教育業界に身を置く立場だから、違和感を覚える記述もあり、さてなるほどそういうことかなと思える部分もあった。

特に、道徳教育の功罪という面では、かつて自分が「道徳の授業」を受けていたときの、なんとなく首筋あたりに這い回る気持ち悪さとして現れていた違和感の正体はこれだったのかと合点できるものがあった。

「道徳教育推進校」に指定されると、かえってイジメやその他問題行動となって現れてきてしまうのだという。これは、筆者によれば、人間の持つ自然な人格バランス=善と悪が渾然一体となっている状態を故意に人為的にアンバランスな状態にしてしまうからだという。人間とは内に光なる部分と闇の部分を抱えているものであり、それは「嘘」と「秘密」という形をとっているが、そういう部分を強制的に排除し否定することで、嘘や秘密と上手に付き合えない人間ができてしまう。自分の「悪い」部分と向き合えず、自己否定ばかりをするようになり、そのストレスが行動となって出てきてしまうのだということだ。

猿、オオカミ、超猿

筆者は異色の経歴を持つ人物だ。医学部を出て病院勤務をしたのち、なぜかパリの音楽学校に留学している。この、医学と音楽という二つの異なる分野を修めた人物としての見方は一般的な教育観と一線を画すものがある。タイトルの「猿の思考と超猿の思考」という一見エセSFみたいなネーミングも、そういう独創的な視点があるからこそのものなのだろう。「猿の思考」とは、現代の教育の大勢を占める「脳の教育」。つまり、暗記や論証プロセス(形式的な因果関係)の反復と定着を指す。マニュアル通りの思考を徹底的に教え込むことで人間の持つ独創性や即興性が失われるという。それに反するのが「オオカミの思考」。これは、昔からある「心=身体」の思考で、興味や関心から出発し自ら主体的に疑問を解き明かしていく思考法をいう。筆者は、この「オオカミ」→「猿」と思考法が変遷して今に至る過程を説明し、これからはこの二つを融合させた新しい思考法が必要になるのだという。それが「超猿の思考」である。ヘーゲル弁証法になぞらえた形で論が結末を迎えるのだか、結局は「猿の思考」とかクソミソに言いながら、それでもそういう思考法は残しつつ古い思考法を復活させていくのだという、ちょっと「結局なんなの」と思ってしまうような終わりかたなのである。

教育を生業とする者として

言っていることに矛盾があるものの、論の展開に力がありすぎてついつい納得させられてしまう。でも、自分のような教育で生きている人間は一度触れたほうがいい本なのかもしれない。自分がいかに独善的になっていたかが分かる。自分が教えていると思い込んでいる、教科教育やひいては受験指導というものが矛盾や問題を多く孕んでいるのにうすうす気づいているにもかかわらず、そういったものを通して子供達を「鍛えている」のだと自負することが果たして正しいことなのか、疑念を持つ一石になった。受験のために勉強させられたものが果たしてその後どれだけ定着しどれだけ役に立っているかという点を考えれば、自明のことだろう。数学を習ったことが、実は分析的な思考とか論証的な説明法とかに役立っているとは言いつつ、イマイチ実感できないのも、何に役立つか説明されないままに「自分のものにせよ」とひたすら反復させられ練習させらてきた経験があるからではないか。